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伝説の翼、まだ見ぬ空へ スキージャンプ日本代表・葛西紀明 2016年2月8日 NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

TV番組レビュー
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■ 知られざる“レジェンド” 葛西紀明 密着9か月

コンサルタントのつぶやき

『伝説(レジェンド)は終わらない』

2年前のソチオリンピック。7回目の出場で悲願の個人での表彰台に立った(銀メダル)。昨シーズンもワールドカップで表彰台に上がること6回。20代のライバルたちと互角に闘う。スキージャンプ日本代表・葛西紀明(43歳)。キャリアは実に25年。伝説はまだ終わらない。極限まで研ぎ澄ました肉体と強じんな精神力を必要とするスキージャンプ。20代がピークという定説を葛西が覆した。

20160208_スキージャンプ日本代表・葛西紀明_プロフェッショナル

番組公式ホームページより

葛西は無類の練習好き。合宿先の宮古島ですぐに所属チームの若手とランニングを始めた。葛西はとにかくリラックスすることを心掛ける。終始笑い声が絶えないトレーニング風景。キャッチボール、ビーチバーレー、リフティング、スラックラインなど、スキージャンプとは関係のない練習ばかりを行う。実は、様々なスポーツを行うことで、単一のトレーニングだけでは鍛えられない体中の筋肉に刺激を与えているのだという。ボールを使った練習にはもう一つねらいがある。それはジャンプという競技に欠かせないある力を養うことだ。

『“瞬間”に対応する力』

ジャンプはおよそ90kmで踏み切り、わずか数秒で100m以上を飛ぶ、ハイスピードの競技だ。一見ジャンパーは空中で動かずに同じ姿勢をとっているように見える。だが実際には常に変化する風など、状況に合わせて瞬時に手足を動かし飛行している。

「自分の足をどう動かしていくとか、上半身を(どう)動かすとか、目線とか、一瞬のそういう判断を瞬間で考えなければならないんですよね。下手したら死にますからね、転倒して。球が来たらどうしたらいいかな、どこで受けるかなとか、そういうパッとした判断をジャンプにいかしたいと思って、(球技を)たくさん取り入れています。」

43歳という年齢はジャンプ競技にとって極めて異例。加齢とともに体は変化している。ジャンプシーズンに入る前に断食を始めた。なかなか体重が落ちないという。さらに、40歳を超えた頃から膝などに絶えず故障をかかえ、傷の治りも遅い。今年も肉体は過酷な闘いに耐えてくれるのか。

■ “レジェンド” 葛西紀明 43歳 世界と闘う秘密とは

なぜ、葛西さんは長い間、世界のトップレベルで闘い続けられるのか。その秘密の一端はフォーム。手や頭の位置が1cm違うと飛距離が10m変わると言われる。ジャンプの世界で誰よりもフォームを進化させてきた。例えば葛西さんが20歳の頃、板をV字に開くジャンプが世界の主流になった。すると葛西さんはそのフォームを独自に改良。前のめりになり、板を極端に近づける「カミカゼ スタイル」。成績を一気にあげた。その後、ルール変更で板の長さが変わり、日本人選手が急に不利になることがあった。だが、葛西さんは新たなフォームを毎年追求。風洞実験まで行った。30代後半には脇に着けていた両腕を大きく広げる「モモンガ スタイル」を生み出し、世界を驚かせた。変化についていけず、引退する選手が多い中、葛西さんは今も世界のトップクラスを走っている。

『変化を恐れないから、継続できる』

「いいものと思ったらすぐに変えますね。相手が強かったら、どうにかしなきゃっていう、そういう考えはすぐに湧いてきますね。たぶん、根っからの負けず嫌いなんだと思います。」

■ “レジェンド” 葛西紀明 43歳 知られざる闘い

去年11月、ワールドカップ直前、葛西はフォーム改善に取り組んでいた。今回変えるのは、台を滑り降りる時の腰の位置。僅か1cm腰を高くすることで、姿勢をより前かがみにし、空気抵抗を減らす。実は去年の夏の大会では思うように成績が上がらなかった。フォームを変えて飛距離を伸ばさなければ世界とは闘えない。だが、フォームの改造はもろ刃の剣。重心の位置が変わることで、体のバランスや踏み切りのタイミングを微妙に調整しなければならない。

今年もワールドカップが始まった。これから3月までの5か月間、各国を転戦しながら32戦を闘わなければならない。新しいフォームが自分のものとなっているか。初戦の滑りがこれからの試金石となる。飛距離は123m。葛西にとっては物足りないジャンプだった。

「アプローチ(助走路)を滑ってるうちに、スピードを出したい。それで求めすぎて、つま先にかかってしまってスリップしちゃうみたいな。」

スリップとは踏み切りの際に起こる現象だ。フォーム改造で腰の位置を1cm高くした結果、重心が前に移動。踏切の動作が極わずかに変化した。その結果、足元が滑り、台を踏み切るパワーが十分に出ていなかった。

翌日の個人戦、微妙な調整が行えるか? だがこの時、葛西はある大胆な決断をしていた。通常、選手は1日に、予選1本、本線2本の3回ジャンプをするところ、予選を飛ばないことにした。世界ランキング10位以内に入っている葛西は予選を免除されているのだ。しかし、その日の台の状態を体で知るために、通常は予選も飛ぶ選手がほとんど。この日は葛西以外の選手は皆が予選を飛んだ。

「飛ぶとあれこれ考えてしまうんですよ。そのまま飛んでどんどんダメになっていくっていう経験もあるので、ダメになりそうだなと思ったら飛ばないです。3本、集中力を持続させなければならないじゃないですか。それなら本当に2本だけっていう2本に集中。」

10分間、軽く走るのがジャンプ前のいつもの儀式だ。頭の中に思い浮かべるのは、ジャンプ台に座る前から着地までのひとつひとつの動作。勝利する姿を繰り返し思い描く。誰よりも体と心を鍛えたものが勝つジャンプという世界。だが、最も大事なのは別にある。

『その瞬間、無心になれるか』

「頭を空っぽにした方が、完璧なジャンプができると思います。試合は一瞬一瞬もちろん緊張もするし、失敗したくないって思っていますけど、そのへんは自分との闘いじゃないですか。何も考えずに、頭の中、真っ白というか無意識で。」

136mの大ジャンプ。スリップを克服し、最高のタイミングで踏み切った。今シーズン初のワールドカップは5位。まずまずの滑り出しだった。25回目の葛西の冬が始まった。

■ “レジェンド” 葛西紀明 家族・五輪…逆境の半生

ソチオリンピックで銀と銅、二つのメダルを手にした葛西さん。競技の傍ら、年に30日はジャンプ競技のPRに務める。いつも笑顔を絶やさない葛西さん。でも、かつては「鉄仮面」と呼ばれる程、厳しい表情で有名だった。長い、本当に長い苦悩の日々がそこにあった。

『本当の“強さ”とは』

昭和47年、葛西さんは3人兄弟の真ん中として北海道に生まれた。ジャンプを始めたのは小学3年生の時。すぐに頭角を現し始めた。

「小学校、中学校までは負けなしで試合に勝てたんですよね。そのときはもう、何も考えないで飛べたんですよ。飛べば勝つみたいな。」

そんな葛西さんを支えたのは母の幸子さん。体の弱い夫の代わりに、一人で家計を支えた。とにかくジャンプで結果を出したい。葛西さんは、当時史上最年少の16歳で日本代表に選出。19歳の時にはオリンピックに出場できる程になっていた。だが、2回目のリレハンメルオリンピックの時に試練が襲う。妹の久美子さんが数万人に一人という思い血液の病に倒れた。金メダルを取って喜ばせたい。そう胸に秘め、葛西さんは勝負に挑んだ。だが団体銀メダル。僅かに金メダルには及ばなかった。次は母国・日本の長野での開催。「次こそは」と意気込んだ。ところがまたもや悲劇を襲った。自宅の火事で母幸子さんが大やけどを負い、オリンピックの前年、息を引き取った。無念を背負い、ひたすら練習に打ち込んだ葛西さん。ところがその結果、足首を捻挫。オリンピックの団体戦ではメンバから外された。

「前の年に母親を亡くしていたので、天国にいるお母さんに金メダルを見せてあげたいなって。何やってんだ、という悔しさがありますし、すべてが悔しかったですね。」

この時、葛西さんは25歳。ジャンプの世界では30代で現役を続けるのはごく僅か。次はラストチャンスになるかもしれない。自分をますます追い込み、過酷なトレーニングを課していった。まったく笑わないその様子から、「鉄仮面」とまで呼ばれるようになった。そして、日本のエースとして迎えた4回目のオリンピック(ソルトレークシティ)。まさかの転倒で49位。葛西さんのショックは大きかった。「血反吐を吐くほどに鍛えたのに、どうして勝てないんだ!」「このまま終わってしまうのか…」。

■ “レジェンド” 葛西の転機 逆境のなかで得たものとは

コーチになったペッカ・ニエメラさんから新たな提案を受けた。
「ノリアキはちょっと頭が固くなっていたようです。そんな彼に必要だったのは技術だけではなかったのです。リラックスできる環境や仲間こそが必要だったのです。」

適度に休みを取り、心を落ち着かせる。「ジャンプは楽しい」そんな気持ちを持つことも大事だと教わった。自然と笑顔がこぼれるようになった。そして40歳を前にひとつの決断をした。それまで葛西さんは母幸子さんからもらった手紙を試合の度、肌身離さずに持っていた。それを自宅に置いていくことにしたのだ。

「いつまでも悲しみだとか、母が亡くなったから、その悲しみのあれで頑張るとかって、そういうしがらみは、もういいんじゃないかと。」

迎えた7回目のオリンピック(ソチ:2014年)。この競技での最年長、41歳での表彰台。個人銀、団体銅、世界中を沸かせた。その時、勝つために最も大事なことに気が付いた。

『その瞬間、無心になれるか』

「ソチオリンピックの年になるまでは、ずっと考えていました。アプローチはこうして、こういうふうに滑って、重心はここで、踏切来たらこうでって。ずっと考えて飛んでたんですよ。いつか来るんじゃないか。いつか何も考えないで飛べる日が来るんじゃないか。それが中学生ぶりに来たのが、ソチオリンピックのときだったんですよね。」

長い長い苦悩の日々を乗り越えてたどり着いた一つの境地。43歳の葛西さん。さらなる高みへ、今も歩みを止めない。

■ “レジェンド” 葛西紀明 勝負の冬 かつてない試練

去年12月、葛西は新たな伝説を刻んだ。大ジャンプで3位を獲得。自らが持つ史上最年長表彰台の記録を塗り替えた。だが、葛西はこの時、ある不安を抱えていた。今シーズンから始めた腰を高くするフォーム。それがまだしっくりこない。現に7戦を終えて、総合ではまだ13位に甘んじていた。せめて10位以内をキープしなければ総合優勝は到底望めない。葛西にとって、挽回を期す大事な大会が控えていた。「ジャンプ週間」。年末年始の10日間、4か所を転戦して、ジャンプを競う。

『ジャンパーとしての人生』

今、ジャンプの世界は若手の台頭が著しい。有望株の多くは10代から20代前半。葛西とは親子ほどの年齢差だ。

「ちょっとの失敗で、これだけ(9m)の差が付いちゃうんで。それだけ、世界のレベルが上がってきてるし、シビアになってるし、勝つのは難しいと思いますね。」

ジャンプ週間は43歳の葛西にとって過酷なスケジュールだ。試合が終わると、その日のうちに次の会場に移動。翌日には次の大会の予選が始まる。体を休める暇もない。第3戦の2本目は踏切に失敗した。葛西はあのソチで掴んだ無心の感覚をなかなか取り戻せずにいた。翌日、葛西は一人で黙々とウェイトトレーニングに励んでいた。あえて体を疲れさせてジャンプの時に無駄な力が入らないようにする。

最終、第4戦の本戦が始まった。しかし上位との差は縮まらない。

「こんな難しい競技で、たった2本しかなくて、この一瞬で完璧をしなきゃいけない。こんな難しい競技、ないじゃないですか。それに立ち向かっていくのが楽しい。ずっと勝っているんなら、面白くないと思うんですよ。多分すぐ辞めていると思います。」

葛西はその後、各地を転戦。そんな中、今年1月、悲しい知らせが入ってきた。長年闘病を続けていた妹の久美子さんが亡くなったのだ。葛西はその直後の大会に出場。自らが持つ日本人最長ジャンプ記録(240.5m)に並び、5位入賞を果たした。

プロフェッショナルとは、

「自分の能力だったり、技術だったり、努力だったり、
 負けないという気持ち、勝ちたいという気持ち、そういった
 すべてのモノを持っている人が、プロフェッショナルだと思います。
 それが、僕です。」

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番組ホームページはこちら
http://www.nhk.or.jp/professional/2016/0208/index.html

葛西紀明オフィシャルブログ「神風ジャンパーの挑戦」はこちら
http://ameblo.jp/nori66nori/

→再放送 2月13日(土)午前0時55分~午前1時43分(金曜深夜)総合

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