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(池上彰の大岡山通信 若者たちへ)(51)報道圧力と資本主義 「言論には言論」市場ルール

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■ 経済学的に「放送」は市場取引で十分に需要と供給が調整されるのか?

久しぶりに小気味よい池上節が聞けて(読めて)、楽しい時間が過ごせたのですが、池上氏が「経済学」を持ち出されたので、「経済学」からちょっと違った視点でコメントを付したいと思います。

2015/7/6|日本経済新聞|朝刊 (池上彰の大岡山通信 若者たちへ)(51)報道圧力と資本主義 「言論には言論」市場ルール

(注)日本経済新聞の記事へ直接リンクを貼ることは同社が禁じています。お手数ですが、一旦上記リンクで同社TOPページに飛んでいただき、上記リード文を検索すればお目当ての記事までたどり着くことができます

「自民党の若手議員の集会で、「マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい」などの発言があったことが、「言論の自由」をないがしろにするものだとして、厳しい批判を受けました。これを経済学の観点から見てみましょう。」

「自由なマーケットで公正な競争が行われていれば、優れた商品がより多く売れるようになるはず。その結果、世の中には、品質のいい商品が出回り、私たちの生活の質が向上します。
 たとえば、高い視聴率が取れるテレビ番組は、それだけ視聴者に支持されているといえます。商品に置き換えると、人気商品が売れていることになります。マーケットに支持されていれば、商品は長く売れます。
 一方、消費者に人気のない商品つまり視聴率の取れない番組は、テレビ画面から消えていく。これが資本主義経済のルールです。」

ここまでの論旨は、マスコミによる報道(放送)も、提供者(実質的にはスポンサー)が供給し、視聴者が需要する「市場財」という位置づけで、ご説明されています。そして、競争市場の中で、需要と供給のバランスにより、自然に質の悪い(視聴者が見たくない)番組は消えていくから問題ない、むしろ、

「自民党の勉強会での発言のように、「気に食わないマスコミを懲らしめる」という発想は、自由なマーケットの力を信じていないということになります。」

とあるように、市場の調整能力(アダム・スミスが言うところの「神の見えざる手」)に任せよ、と言っています。

さらに、

「発言した議員は、安保法制をめぐるマスコミ報道が気に食わなかったようです。でも、安保法制を多くの国民が支持していたら、批判報道をしている番組は、次第に姿を消すでしょう。そうなっていないということは、与党が安保法制の必要性を国民に理解させることができていないことを意味します。
 これは自分たちの力不足の問題です。自由なマーケットのもとで、自分たちが「優れた商品」だと信じる主張を、消費者=国民に売り込めばいいのです。その自由競争に勝てなければ、それは商品の質が劣っているか、マーケティングが間違っているか、あるいは広告の能力が弱いかです。自らを省みるべきです。
 言論には言論で。それが、自由なマーケットの力を信じる先進資本主義国のルールです。」

と結論付けています。

① 「放送」は、市場取引で十分に需要と供給が調整される「市場財」である
② 政府も、「言論」という商品で、マスコミと市場競争をするのが資本主義の原理である

という主張であると理解しました。

コラムとしては、呼んでいて大変面白かったのですが、この2点について、老婆心ながら、以下にコメントしたいと思います。

 

■ 「無料放送」は「公共財」で市場メカニズムが十分に効かないと教わりましたが?

最近は、ググるとなんでも出てくるので、「公共財」をWiKiで調べてみました。

下図および各軸の説明文はWiKiより

公共財

従来の経済学の定義や解釈によりますと、自然に市場の力だけに任せておくと、「非排除性」や「非競合性」が発生し、消費者(視聴者)が本当に需要したい量が十分に供給されないので、供給者側にいろんな便宜を図っている、というのが経済実態のはずなんですが。。。

たとえば、新聞。「定価販売」を義務付ける「再販制度」や、「記者クラブ」による取材者の限定、といった優遇措置を受けて、新聞報道の量と質(?)を担保できるように工夫されています。

また、テレビ放送(地上波と思ってください)は、総務省による免許が必要であり、新規参入することが難しくされています。また、外国資本の参入も規制されています。

つまり、広告のスポンサー云々を持ち出す前に、業界として、マスコミは非常に市場メカニズムが働きにくい環境に置かれているということです。

池上氏はその業界で生きているお方。そういう前提は当たり前すぎて、お話になられなかったのでしょう。(^^)

 

■ 「マスコミ」は「真実」を報道しているのか?

ここで、マスコミ論や言論の自由を論じたいのではなく、民放、NHKに限らず、「ポジショントーク」がどこまで許されるのか、という皆さんの常識を問いたい、もしくは今までどう感じていらっしゃったか、ということを確認したい気持ちが大きいです。

欧米のマスコミは、明らかに支持政党というものを持っているケースが多々あります。一方で、日本のマスコミは不偏不党と是としています。いわゆる「中立」で「真実」を報道するということ。「支持政党を持つ」ということと「真実を報道する」ということは、決して両立しないのでしょうか?

つまり、誰かが誰かに情報をもたらすということは、情報をもたらす側に必ず「意図」があるということ。その「意図」が「自分の正義」を主張したい気持ちだったり、「(自分が信じる)真実を周知したい」という信条だったり、、、

何が「真実」かということは、定義が大変難しいものです。

「BさんAさんに殺されました」

「Bさんが死亡しました」

「AさんがBさんを殺しました」

「善良な市民であるAさんが、安全運転で自動車を運転していたところ、反社会的勢力に属しているBさんが当り屋をやろうと車道にいきなり飛び出して、Aさんの車にはねられて、Bさんは打ち所が悪くて、心肺停止の状態になり、病院に運ばれましたが、しばらくして死亡が確認されました。Aさんはショックのあまり2週間寝込んでしまいました。Aさんは自分を攻め続けて今でも立ちなれず、精神科の先生のカウンセリングを受けています」

マスコミについては、経営とデスクは分離されており、あからさまな経営による現場への業務指示は、違法、告発、現場の大量退職など、により牽制がかかっています。それでも、ポジショントークは世の中から無くならない。「偏向報道(この言葉すら、ある一方の利害者からの表現にすぎないのですが)」はなくなりません。

大事なのは、情報を受け取る自分自身が、常に、何が、誰にとって、利害関係がどのようになって、この事実とされる報道が、この方法でなされたのか、それはなぜこのタイミングなのか、を考えることです。

でもそれを実践するのって疲れますよね!
そして、報道のウラを考え続ける自分の卑しさ(性格の悪さ)を嫌悪したくなりますよね!

まあ、ほどほどに、できる範囲で、「モノを疑う、批判的精神」が大切ってことで。

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