■ 「カンブリア宮殿」10周年 今夜は90分スペシャル!
10年前の2006年4月に番組がスタート。栄えある最初のゲストは、トヨタ自動車元・社長の張富士夫さんだった。その後も大物経済人や町工場の親父たちがゲストに招かれ、毎週楽しみな番組となった。
例えば、
●ファーストリテイリング会長兼社長 柳井正
「失敗しても会社が潰れなければいい。早く失敗して早く考えて早く修正する。」
●ソフトバンク社長 孫正義
「ずっとやっていると崖っぷちを歩く名人になる。」
これまでの出演ゲスト400人以上。今回は、2人の破天荒社長をゲストに迎え、その破天荒ぶりに驚嘆する!
■ “破天荒”に切り開いた・・・ニトリの波瀾万丈人生
最初のゲストは、日本経済新聞朝刊の「私の履歴書」でも評判になったニトリホールディングスの似鳥昭雄さん。
28歳の時にライバル店出現で売り上げ激減。自殺を考えるまでに至ったが、友人知人から借金をして渡米。家具の安売りのヒントを得る。
「行ってダメだったら、それから死ぬことを考えればいいと。『人生に悔いなし』と、中学時代の先生が「悔いのない人生で失敗してもいいから思い切ってやれ」と。それがいつも頭に浮かんでいた。ダメで元々。何でもやってみようと。」
「前向きに乗り越えようと思って無我夢中でやっていたら、終わって何倍にもなって返ってくる。」
村上氏が、「落ちこぼれだからこそ成功した、とも言えないか?」
「全くその通り。頭のいい人ほど先を考え過ぎるから「やめとくかな」とか「後からにしようかな」とか。でもこっちは考えても何も出てこないから、とにかくやってみようと、体当たりで。真面目に物凄く時間をかけるのも1つの方法だけど、“勉強”は時間がもったいない。ムダ、ムラ、ムリで、勉強時間はムダだからしないと。」
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(http://www.nitori.co.jp/)
■ “破天荒”列伝
破天荒といえばこの経営者も忘れてはいけない。
●日本電産会長兼社長 永守重信
「2030年に“売り上げ10兆円”と言っている。これは明らかにホラです。」
世界No.1の“モーター”メーカー。ハードディスク駆動用モーターに至っては世界シェア80%の一人勝ち。年商1兆283億円、従業員9万8000人の大企業。しかしその始まりは、1973年創業当時、工場は民家の1階を間借りしてのスタート。従業員は自身を入れてたった4名。28歳の時の創業だった。
「一流大学も出ていないし、人脈があったわけでもない。何もない。全く裸で出発。」
名もなきベンチャーにだれも見向きもしてくれない。そこで永守さんは破天荒な行動に出る。29歳の時に単身アメリカにわたり、電話帳から適当に商談相手を探し出し、飛び込み営業を始めたのだ。アメリカなら、こっちの会社規模もばれないと踏んでの作戦。すると世界的なメーカーの3Mが食いついた。テープレコーダーの駆動用モーターの3割小型化の受注を獲得。半年後には試作品の納品までこぎつけた。
だが、この裏には破天荒なエピソードが隠れていた。
「その当時は、工場を見せたら必ず商談が壊れる。いかに工場を見せないで帰ってもらうか。製品はいいわけだから。京都には観光地がいっぱいあるので、(商談相手が)京都駅に着いたら「金閣寺も二条城もあるぞ」と、ゆっくり動く。」
京都観光に連れ出し、工場見学を忘れさせる作戦だ。
「だいたい、初めて京都来たらそんなこと(工場見学のこと)忘れちゃう。それでも「工場見せてくれ」と言われたらアウト。(工場を)見ずに帰ってくれたら99%受注。」
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(http://www.nidec.com/ja-JP/)
次に眉毛を触ったら幸せになれるという都市伝説の持ち主。強豪ひしめく軽自動車の世界でトップを走る。
●スズキ会長 鈴木修
記者が質問する。「No.1へのこだわりありますか?」
「蓮舫さんが言った「2番でいい」という心境にはなれない。」
初代“アルト”には、知られざる“開発”エピソードがあった。それは鈴木さんが社長に就任した1070年代後半のこと。販売不振で経営危機に陥っていた。その頃、鈴木さんは他社を圧倒する激安カーの開発を現場に命じる。「50万円以下のクルマをつくれ!」エンジニアは猛烈に反発。「絶対に無理です!」。すると鈴木さんは言い放つ。「エンジンを外してもいいから作ってくれ!」
これで現場は覚悟を決め、「1部品1円・1g」を合言葉にコスト削減を実施。こうして47万円で1979年に発売された初代アルトは、スズキ躍進の原動力となったのだ。
「アルト様様でね。これを見ると感謝して最敬礼。」
コスト削減の鬼の鈴木さん。番組収録中のセットにいちゃもんを。
「セットの作りだって大きいでしょ。こんなにいりますかね。これを全部壊しちゃって絵を1枚貼っておけばいい。コップも大きいけどね、1センチ小さくすると1円50銭安くなる。コースターも大きすぎる。ギリギリにすれば50%削減できる」
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(http://www.suzuki.co.jp/)
スズキといえばこの人も。
●セブン&アイ・ホールディングス会長 鈴木敏文
「従来と同じ方法では絶対に通用しない。」
鈴木さんが作ったのはコンビニの王者セブンイレブン。全国1万8092店舗(2015年8月末時点)。常に業界とトップを走ってきた。実は鈴木さん、元々は出版業界のサラリーマンだった。
「映像プロダクションを作ろうと出資者を募ることになった。たまたまイトーヨーカ堂を前に知っていたのでお願いに行ったら、「その話は面白いな」「うちに来ればやらせてあげる」という話だった。」
その話に乗り、30歳のとき、1963年にすんなり入社を決める。ところが、
「入社したら、「今すぐじゃなくて将来のことだ」と言われた。」
そんな経緯で入社したが、入社後に頭角を表わし、39歳で取締役に。そして、41歳(1974年)に「セブンイレブン」1号店をオープンさせる。
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(http://www.7andi.com/)
●ガリバーインターナショナル会長 羽鳥兼市
中古車業界の常識を覆してきた羽鳥さん。その信条とは、
「プラス思考で生きているとすべてが楽しいんですよね」
プラス思考の原点となった両親の“破天荒”エピソードとは?
「泥棒に入られて現金を盗むところをうちの両親が見つけて、母は「おなかが空いているのか?」とご飯を作ってあげて、帰りの電車賃をあげて。泥棒に入られたとマイナス思考のことは忘れて。これには続きの話があって、2,3年後(泥棒が)2トントラックに石炭を積んできて、「あの時お世話になった。その後、事業で成功した」と。」
「プラス思考と言っているが、これは訓練でなる。何かやった時に「良かった、よかった」、けがした時にも「良かった」「これだけで済んで良かった」」
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(http://www.glv.co.jp/)
■ “破天荒”列伝を見た似鳥さん インタビューは続く
「永守さんとはたまに話すけど共通のところもある。“やるためにはどうするか”、マイナスのことは考えない。障害は考えない。障害は乗り越えるためにある。普通の人は、障害があるから「やっぱり考えましょうか」となるが、我々は「行く」と決める。いろいろなマイナスや障害は、走りながら処理していく。」
村上氏が問う。「困難を乗り越えるときに、一番大事なものは?」
「一番は「攻めること」じゃないかなと思う。“即断即決”も攻めること。考え過ぎると攻められない。立ち止まってしまう。結果的に、必ず運が回っている時は攻めている時。終わってみれば、楽しい経験にもなる。他の人の人生の何倍も生きたから悔いはない。後悔は全くない。今死んでも、うちの家内は「カラオケ大会で祝ってあげるから」って。」
プランタン銀座に中~高価格帯の商品を取り扱う新業態をオープン。
「いろいろ悩んだり苦しんだりしていること自体が楽しい。人生はスリルとサスペンス、ハラハラ、ドキドキ。アドベンチャーですから。」
恩師の経営コンサルタント、故 渥美俊一氏の元自宅を訪ねる。アメリカの“チェーンストア”経営理論を日本に広めた人物で有名。似鳥さんは渥美氏の勉強会に入り、チェーンストアの何たるかを学んだ。渥美氏の門下生には、ダイエー 故中内功氏、イオングループ 岡田卓也氏、セゾングループ 故堤清二氏など、錚々たるメンバが集う。似鳥さんはこの勉強会でも劣等生。渥美氏の自宅リビングでさんざんしぼられた。
「ここでよく怒られた。一番言われたのは、「売る立場で考えてはいけない」「お客の使う・買う立場で見ると、初めて問題が発見できる」と。
「一番の恩人は家内だが、二番目は渥美先生」
■ どん底から這い上がった・・・日高屋ラーメン人情物語
美味しさと安さを武器に、日高屋は関東で354店舗を展開。
●ハイデイ日高会長 神田正
2014年9月25日放送時のインタビューで、自店のラーメンの味は?と尋ねられ、「普通ですね。」と答え、後で社に戻って「普通は無いでしょ」と怒られたとか。では改めて、お味はどうですか?
「まあ、点数をつけたら、75点ぐらい。前は65点だった。ちょっと上がってきた。あまりうまいと毎日は食べられない。たまにはいいけど、ちょっと抜けたような味がちょうどいい。」
ラーメン一筋で生きてきた神田さん。その一言はスープより味わい深い。
「味も人生も完璧じゃない方がいい。完璧な人生なんかつまらない。波瀾万丈がいい。」
神田さんは1941年生まれ、埼玉・日高市で育つ。神田さんいわく、村一番の貧乏。中学卒業後すぐに就職。そして15の職を転々とする。そんな神田さんの転機の時は22歳、ラーメン屋の出前持ちになった時。そこで今まで感じなかった大きな魅力を感じたのだ。それは、出前を届けた時の“現金”の感触。
「お金を持った感じが何とも言えなかった。お金に縁が無かったから。600円、700円もらってポケットに入れて、帰ってレジに入れるんだけど、その持った感じがすごかった。こういうのがあるんだなと。」
やる気が出た神田さんは、27歳のとき、別のラーメン店で雇われ店長に。必死に働くと店は軌道に乗った。しかし、ちょっと良くなるとすぐ調子に乗るのが若い時の神田さん。また“どん底”が待っていた。ラーメン屋を繁盛させた神田さんは、同じ飲食店街でスナックを始める。従業員を雇う余裕はないので、ラーメン屋とスナックを掛け持ち。
「スナックは、色気が無いと困ると思ったので、看板娘をつくった。結構美人だったんだよね。」神田さんは実の妹をホステスにしたのだ。やってみると、ガラの悪い客が集まり、店の評判を落とし、結局1年でラーメン屋ともども、連鎖倒産。
「神様が教えてくれたんだよね。「ラーメン一本でやれ」と、言われたような気がした。」
それから4年後、32歳(1973年)のとき、大宮でラーメン店を開業。しかし、
「いい時なんか続かないですよ。必ず地獄が待っている。」
当時はコンビニや深夜営業のお店がほとんどなかった時代。そんな中で神田さんは深夜2時まで店を開けた。すると、夜行き場を無くしたお客が集まり大賑わい。しかし、肝心のラーメンの味は今一つだった。お客は、「言っとくけど、うまいから来てるんじゃないよ。他に無いから来てるんだからね。」スープのストックが無くなりかけた時には、お客の目を盗んでお湯でスープを薄めて販売したことも。
「儲かったよ、だから。お湯で割ったスープでラーメン出すんだから。それでもお客さんが来てくれた。だって深夜やっている店が無いんだから。」
また神田さんは調子づく。“駅前で深夜営業すればどこでも儲かるんじゃないの!?”
駅前の一等地に次々の出店。しかし、一等地だけに家賃は高く、銀行からの謝金が増え続け、総額1億円にまで膨れ上がった。再びどん底に。
しかし人一倍強い負けん気を発揮し、新宿に念願の出店。1994年、「新宿ラーメン館」。全国のご当地ラーメン(九州ラーメン、札幌ラーメン、喜多方ラーメンなど)を1店で味わえると、オープン当初は客が押し寄せた。だが、
「ご当地の人に「全然、本場と違うな」ってバレちゃった。」
実はどのラーメンもベースのスープは全て一緒。タレだけを変えて、それ風の味にしていたのだ。当然、客足は徐々に減り、ついに看板を下ろした。しかし、この失敗から“究極のラーメン”に辿り着く。
「すごい個性のあるラーメンから一線を画して、10人が食べて、6、7人ぐらいが「おいしい」と言ってくれる味にあえて持って行った」
飽きない味はどんどんお客に支持され、現在は10日に1店をオープンさせている。そして関東に354店舗。
「こんな人生は二度とない。だから朝起きると太陽に向かって“ありがとう”と言っている。」
神田さんのすごさは、必ず自分の目と足で毎夜、出店場所を調査していること。毎晩のことに、不審に思った警官に職務質問をされたことも。事情を話すと、その警官が「この辺は人通りも多く、ラーメン店が無いからきっと繁盛するよ」。お店をオープンさせるとその予言通り大繁盛した。愚直な努力が成功を呼び込んだのだ。
ご自身が人生を振り返って一番のどん底だったと感じた蕨出店前後の時期、ここで以後の出店調査を自分の足で確認するという現在のスタイルを確立。一番のどん底に、今の成功のネタが仕込まれていた。
「あきらめないでやっていると、それが具現化されてくる。同業者を見ていても、もう一歩のところで諦めちゃう人が多い。」
「普通の生活でいいけど、貧乏だけはしたくないという気持ちは、子供の時からずっと持っていた。でも、“今”があるのは、子供時代の経験が根底にあるのは事実。お金を積んでも、大学に行ってもああいう経験はできない。苦しかったけど、今振り返ってみるといい時期に生まれたなと。」
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(http://hidakaya.hiday.co.jp/)
■ おれたちも這い上がった・・・どん底列伝!
●壱番屋創業者 宗次徳二・直美夫妻
いまや、全国約1200店舗のカレーチェーン。バリエーションに富んだメニューで客を魅了している。
この夫妻は共に、幼少期にどん底を経験している。妻 直美さんは、6人兄弟姉妹の末っ子。10歳の時に父が結核で死去。大黒柱を失った一家はバラバラに。夫 徳二さんは、3歳で養子へ。養父はギャンブル三昧で仕事もろくにせず。養母は徳二さんを置いて家を出ていってしまった。料金滞納で、電気も水も止められ、飢えのしのぐための水すら口にできない状態だった。道端に生えている食用の草を春先から秋にかけて口にしていたという。
そういう生立ちだった二人が、職場結婚。そして、1978年「CoCo壱番屋」1号店をオープン。二人がこだわったのは、自分たちが子供の頃、食べたくても食べられなかった“温かい家庭の味”。人気の味は二人のどん底体験があったからこそ、生まれた味だった。
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(http://www.ichibanya.co.jp/index.html)
●ドトールコーヒー名誉会長 鳥羽博道
全国1110店舗を展開するドトール。年間に2億2000万杯を売る日本一のコーヒーチェーンだ。鳥羽さんは1937年、埼玉県生まれ。父親は売れない画家。母親は肺炎で亡くなり、5人兄弟の長男だった鳥羽さんは幼い時から働き始めた。
そんな鳥羽さんの転機は高校時代。きっかけは“父とのけんか”だった。
「父親が画家だったが、画家としての商売が成り立たないので別の仕事を始めた。五月人形などの“目”を作っていた。ガラスで。当時、博打に(父が)凝っていて、売上金をすべてとばく場にもっていってしまう。帰ってくると、父親と勘定を合わせるのだが、たまたまその時に、わずかな金額が合わなかった。そしたら父親が、私に、「お前みたいな腰抜けは!」と言った。「自分こそ腰抜けのくせにして」と言ったら、父親としては、自分のプライドが許さなかったのだろう。」
そこで父親が持ち出したのは、なんと日本刀。
「それをすらっと抜いて、本物ですよ、かつて骨董商をやっていたので、売れ残っていた。日本刀を振り下ろしたもんだから慌てて逃げた。裸足で上着も着ずに。それで「家には帰らない」と決めた。」
その後、鳥羽さんは上京して、21歳の時、コーヒー豆の卸業者に勤務。そして単身ブラジルに渡り、コーヒーを極めた。父親とのけんかがドトール誕生の原点だった。
→ドトールコーヒーのホームページはこちら
(https://www.doutor.co.jp/)
●フォーシーズ会長 淺野秀則
宅配ピザで店舗数日本一のピザチェーンだ。祖父父親と続く会社(年商30億円の紙器メーカー)社長の家に生まれた淺野さん。何不自由のない幼少期を過ごした。
「お前は3代目だよ、と言われて育った。高校2年で父が倒れた。“3代目”の予定がいきなり変わってしまって、突然、冬の野原に追い出された感じ。」
そして、25歳のとき、飲食店オープンの10日後に火事になり、自身も火傷を負う。
「火災保険に入るのを忘れた」と火の中に飛び込んだら、大やけどを負った。1年間は絶対に太陽にあたってはいけないと言われて、横になっていたので、頭がボーっとしていた。その時は、父親は病気療養中(脳梗塞)で、僕は事業を失敗して火事になって、その時に母親が末期のガンだと判明して、こんなに運が悪い人はいない、よっぽど前世で何かあったのではないかと。そこが“どん底”だった。」
その後、レンタルビデオ店や宝石販売など事業に全て失敗。転機は29歳の時。たまたま見た映画があの「E.T.」。
その中に、アメリカの若者が“宅配ピザ”を注文するシーンがあった。これを見た淺野さんはひらめく。日本でも流行ると思い、1987年にピザーラ1号店をオープン。その後、独自の味を編み出し、大ヒット。店舗の拡大に成功した。
「「お金持ち」と「貧乏」の経験を両方できたのが良かった。それを比べた時に、じゃあ頑張ろうと。「前を向こう」「これより悪い日はないだろう」と思って、「あしたの方がきっといいだろう」と、それを信じるしかなかった。
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(http://www.four-seeds.co.jp/)
■ 再び神田さん登場!
村上氏の疑問。「どん底から成功する“わずかな人”の共通点は?」
「ありきたりだけど、運が良かった。いろいろな人に恵まれて。」
村上氏が問い返す。「“運”だといえるのは、修羅場を潜り抜けた人だからこそ口にできる言葉なのでは?」
「壁があっても、粘っていると運が向いてくるような気がする。でもほとんどの人がそこで諦めてしまう。ほとんどの人が引き返す。でも“もう一歩”なんだよね。粘り切れるのは、子供時代にある程度厳しい体験をした人ではないか。」
「外食は、味だというけど、味なんてそんなに大差ないですよ。その中で勝ち抜いて出店できるのは皆さんが頑張っているからこそ。」
「だって、こんなバカみたいな人間がここまでやって来れたのは、みんなのおかげしかないですよ。人間の能力なんて大差はない。運と情熱があれば、神様が助けてくれると信じている。」
■ 最後に二人の座右の銘!
・似鳥昭雄さん
「人生は冒険だ」
・神田正さん
「感謝」
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番組ホームページはこちら
(http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/20150924.html)
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