■ “飲む点滴”甘酒ブーム 老化を防ぐ?麹の力とは
今回の放送は、地方から女性の力で全く新しいビジネスを立ち上げた、そんなお話を2つ。
「塩麹に、甘酒…いま盛り上がる”麹”ブーム、火付け役は、大分の小都市の一人の女性だった!そして、被災地・気仙沼で支援ではない復興プロジェクト。奇跡のニット会社を立ち上げたのは若き女性!地方から革命的なビジネスを起こした二人の女性社長にスポットを当てる。」
(番組公式ホームページより)
2011年に始まった塩麹ブーム。塩麹とは塩と麹で作る発酵調味料。塩代わりに使うと、食材を柔らかくしてくれたり、旨味を引き出してくれたりする。塩麹は2011年に市場に登場(市場規模2億円)して、翌年620億円規模の市場に急拡大した。塩麹ブームは、大分県・佐伯市の糀屋本店(1689年創業、従業員12名、社長・浅利妙峰)から始まった。この地で江戸元禄時代から麹の製造販売を家業としてきた。
そもそも麹とは、米・麦・大豆などを蒸して麹菌と呼ばれるカビを繁殖させたもの。酢・味噌・日本酒・みりん・醤油は、麹の力で発酵された調味料。糀屋本店では、300年続く麹蔵の中で、手作業で種麹から蒸した米で麹を作る。
「麹は手仕事の文化。手を掛け、目を掛け、心を掛け いい麹を作る。子育てと麹育ては一緒。」
昔はどの家でも家庭で味噌や甘酒を作っていて、麹も需要があってどの町にも麹屋があった。しかし、味噌や醤油がスーパーなどで買うものになると、糀屋本店も経営が一気に傾いた。浅利さんは、傾いた家業を何とかしようと、手当たり次第に文献を漁り、人見必大著『本朝食鑑』に出会う。そこに書かれていたのがイワシの調理法。「粕漬けや塩麹漬けもある。」
「麹というものの限界は十分すぎるほど感じていた。味噌・甘酒ではないものを探していた。「麹」という字が入っている。塩は料理に必ず使う。これこそ私が求めていたもの」
浅利さんは塩と麹の配合を何度も試し、半年間試行錯誤を繰り返した。そして見つけたのが、麹3:塩1:水4の黄金比率。2007年にこれを商品化して「塩麹」として発売。そして発売と同時に浅利さんは店先で塩麹の無料講習会を何度も開いた。いろいろなレシピを公開し、4年後の2012年には様々なメディアがこれを取り上げるようになる。塩麹は魔法の調味料と言われ、見事、麹は復活を遂げた。
■ 空前の“麹”ブーム 現代に蘇らせた伝説の女将
糀屋本店もかつての賑わいを取り戻し、「商標登録して独占販売した方がいい」とアドバイスを受けたりした。しかし、浅利さんは独占するどころか、あの黄金比率や塩麹を使った料理レシピまで惜しげもなく公開していった。浅利さんの真意とは?
「私は、たまたま見つけただけ。塩麹は、私のものではない。私のものではないのに、“私のもの”と独占するのは、みみっちい。」
その後、大手メーカーを含む様々な会社が塩麹商品をどんどん売り出し、市場が一気に拡大。日本の食卓を変えた。
村上龍の疑問
「麹の需要が減り、社会から必要とされなくなった時代に、見切りをつけず「発見」への思いはいつから?」
浅利社長
「次男が「糀屋を継ぐ」と言い出した。(店が)傾いて底なし沼に落ちかかっていて、その状態で渡すわけにはいかなかった。その頃、大分県の産業科学技術センター(中小企業支援事業)でアドバイザーのさかもとさんから「宝は足元に眠っているかもしれません」と言われた。地域に、5軒は麹屋があった時代もある。昔を振り返れば「本当に宝があるかもしれない」と思い、「本朝食鑑」などで“麹で作る何か”を探し出し、塩麹に行きついた。」
村上龍の疑問
「でも商標登録しなかったんですよね」
浅利社長
「商標登録にはお金がかかる。商標登録するお金もなかった。どうしようかと思っていたら、産業科学技術センターで「商標登録して囲って守る方法と周知の事実にして皆さんに広める方法がある」と言われ、ピンときて、「みんなに知らせよう」と決め、ブログでも発信した。誰かから何かを言われても、「私は2006年11月から塩麹を使い始めた」という足跡を残していった。」
2006年、まだ日本にfacebookも無かった頃に、既にブログを始めていた所に村上氏が着目。「進取の気性がおありなんですね」「そう、新しいものが好き!」
独占しない代わりに、塩麹マーケットは爆発的に広がった。
筆者の感想)
こういう手法は「オープンイノベーション戦略」のひとつといえます。トヨタも水素燃料電池車の普及のためにあれこれ策をめぐらしているのを思い出しました。
(参考)
⇒「オープンイノベーション、脱自前主義ビジネスモデルのメリットとは? -(前編) 知財権のオープン&クローズ戦略の復習。トヨタと日立の事例から」
浅利社長
「皆さんが協力してくれたから塩麹は羽をつけて飛んでいった。ひとつの流行で終わらず、ひとつの調味料のポジションを獲得できた。」
「手を開けていると拾うことができるが握っていると、次のものは握れない。一番欲張りなのは私です。」
今日はこの一言を紹介したくてブログで取り上げたようなものです!
● 糀屋本店 糀・麹 塩糀 甘酒・甘糀 糀の調味料販売・通販専門店
■ 心温まる感動ニット 200人待ち!気仙沼の奇跡
2011年に東日本大震災でおおきな被害を受けた気仙沼。6年経った今では日常を取り戻しつつある。そんな気仙沼に、丘の上に立つ新名所が誕生している。手編みニットの会社。全国から若者が集まり、手編みニットを試着しては購入していく。ニット商品には手編みしてくれた製作者の名前と似顔絵イラストが入ったタグがひとつずつ取り付けられている。手編みしているのは地元のお母さんたち。
セーターが一着7万円以上する価格帯のもの。そういう手編みニットを求める若者たちの心境は、
「1年後のことも考えて購入する」
「大量生産のものしか持っていなくて、一着ぐらい、誰が作ったか分かるものがあってもいいかな」
お客様一人一人の体形に合わせて編む完全オーダーメイドのカーディガンたち。常に200人待ち状態。こうした手編みニットを提供している会社の名は、気仙沼ニッティング(2012年6月創業、従業員2人、編み手60人)。この会社の創業者:御手洗瑞子さんの経歴は異色だ。2008年、東京大学経済学部卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。2010年、ブータンで首相フェロー就任、産業育成に携わる。しかし、2011年に東日本大震災が起き、
「今は、日本人として日本に帰って、東北の復興のための仕事をするべき時ではないかと。一時的な支援ではなく、中長期的に自らの力で生活していけるようサポートする。そのための種をまいて丁寧に育てる。そういう仕事が必要ではないか。」
きっかけは、ブータン滞在中に知り合った、コピーライターの糸井重里さん。地元復興支援のための手編みニット会社の経営をしないかと声をかけらえた。
糸井氏
「実際に(気仙沼に)住まないとできない。気仙沼に住むことを前提にして、経営や、無理難題が山積みされる時に何とかしていく人が必要だった。あのブータンでやってこられたのだから大丈夫だろうと。逃げ出さないことが一番重要だった。」
5年間に気仙沼に乗り込み、初年度から黒字。市へも納税を果たしている。
■ 奇跡のニット会社を立ち上げたのは若き女性!
御手洗さんが気仙沼に移住を決めた時は、賃貸アパートなどなく、今に至るまで大家族のご家庭に下宿している。最初に直面した課題は、編み手探し。無料の手袋手編み教室を何度か開催し、編み物好きで信頼のおける地元のお母さんたちを探した。
とある編み手のお母さんの言葉。
「針ひとつで復興に貢献できるのならと参加した。一日中ぼうーっとしているわけにもいかないし。何か集中できることがあればいいかなと。」
手編みニットのデザインは、人気編み物作家:三國万里子さん作。アイルランドの港町アランで生まれたしっかりとしたデザインのアランセーターをお手本に。同じ漁港の町¥高級手編みニットの産地モデルをちなんで、世界的な高級ニットブランドを目指す。さらに、立体的な編み目をつくるオリジナルの糸も、企業と協力して開発した。
価格は先に15万円と決めた。編み手への十分な報酬の確保と、それに見合う価値となる商品にするための品質の追求を両立するために。
編み手もそれに報いようと、頑張って手編みを進める。時には、2年間待たせているお客と手紙のやり取りをしながら。
村上龍の疑問
「“200人待ち”の客は何を得たいのか?」
御手洗さん
「物質だけではなくトータルの経験やうれしさがあってこそ注文してもらえる。もうすぐ編み上がりますというお手紙を受け取ったお客様が、「受け取れるのがうれしいけれど、待つ楽しみが終わってしまうのが寂しい」とおっしゃるお客様が多いんです。待っている時間そのものが楽しいのだと思う。」
筆者の感想)
注文を待っている間に製作者と顧客の間に関係性が生まれている。そういうビジネスなら多少面倒なことがあっても頑張りがいがあるじゃないですか。
(当然、筆者の今の仕事(お客様との関係)も、この通りですよ!(^^;))
小池さんの問いかけ
「検品している姿がかっこよかった。スパッと手直しを指示していて。」
御手洗さん
「あれも最初はいろいろ考えて。「ほどいてください」と言うのは大変。ちょっと違うんですよね、というのを遠回しに言えば言うほど、相手が傷つくことに気付いた。なるべく、スパンと明るく、「残念」「ですよね」と終えられた方が。」
村上龍の視点
「被災地以外にも有効なビジネスモデルの要素が詰まっているような気がする。」
御手洗さん
「やはり、2012年の東北は、復興支援の文脈で売られているものが多かった。そういうものは、震災後、一時的には必要なものだが、持続する営みではない。気仙沼ニッティングは、一時的な支援ではなく、この地で続く会社を目指している。最初、編み手さんを誘った時、「是非やりたいんだけど、介護しなくてはならず、毎日は出かけられない」と聞いた。働き方をつくれば、この人も働けるんだと、人の話を聞きながら、一から会社の形をつくっていった。だからこそ、土地にあった形になっているし、他の地域に生きることは多いと思う。」
● 気仙沼ニッティング
● Kesennuma Knitting (気仙沼ニッティング) – Facebook
● ほぼ日刊イトイ新聞 – 気仙沼ニッティング独立のご案内
■ 二人の経営者が考えるビジョンとは?
浅利さん
「麹の力で世界中の人のおなかを元気にして幸せにしたい。戦争など争いで世界が平和になっていくことはないけれど、食べ物がおいしくてみんなが笑顔になればきっと争いも消えていく。ノーベル平和賞をいただけそう(笑)」
御手洗さん
「お客と働く人を同時に幸せにしている会社をつくりたい。お客の幸せを考え、働く人にしわ寄せがいく、働く人を考えて、お客にしわ寄せがいくと、トータルでその会社は人の幸せを増やしていない。会社が人の幸せの総量を上げていくことができる。」
■ 編集後記
「糀」も「編み物」も、昔からあった。古来から必要とされ、親しまれてきたものだ。浅利さんも、御手洗さんも、それらを活かし、地方で成功し、地域再生にも貢献している。だが、資源の再発見と活用は簡単ではない。知識と体験を総動員する必要があり、創り出そうとしている商品には需要があるはずだという予測がなければならない。だが、予測は、確信とは違う。最終的には自らの直感を信じるしかない。お二人は、危機感を失わず、考え抜き、協力者との信頼を築くことで、自身の直感の正しさを証明した。挑戦する女性は、美しい。
予測から確信へ
村上龍
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