とある図書館の風景
最寄りの市立図書館を利用することが多い。そこは、一般閲覧室の他に、禁帯出の書籍を利用するための特別閲覧室がある。資料探しに便利だし、フリーWi-Fiも整備されているため、ノートPCも併用可能で、まさに御誂え向きのワーススペースと気に入っている。
しかし、良いこと尽くめでもない。すぐ隣に「生涯学習室」という名の自習スペースが併設されており、受験勉強や定期試験対策に勤しむ高校生でいつも盛況なのだ。スペース名から分かる通り、市民カードを作っておけば大人でも利用可能で、実際に自分も数回ほど利用経験があるが、ほぼ高校生が占有している。
定期試験前の週末や、肌寒くなる受験シーズンは特にこの自習室の混雑がひどくなる。そして、席にあぶれた学生は、隣の特別閲覧室の席を確保しに来る。
受験生たちが、禁帯出の資料を閲覧する必要も気も無く、ただ受験勉強スペースの確保のためだけに特別閲覧室になだれ込んでくるのを、狭量のゆえ道義的に許せないとは決して思っていない。開館前に少々並ぶことを習慣化した以降は、たった2席しかない社会人専用席にはどうにか座れるようになったからだ。
ただ、イライラして気分が悪くなることはある。特別閲覧室で受験勉強している学生が私語を始めることに対する苛立ちが頭から離れなくてしょうがなくなるからだ。
性分なのか、他人を責めるような感情もロジックをかなり尊重しているようだ。生涯学習室(自習室)は、ほぼ私語が無く運営されているのに、特別閲覧室にやってくる高校生は、私語を平気でする。声を潜めて、ひそひそとだけでなく、時には地声で、また時には大声で笑いだす始末。自習室では私語厳禁ルールを守っているのに、なぜ、社会人も利用している特別閲覧室で私語が許されると思えるのか? 目的外利用なのだから、なおさら自重してしかるべきだろうと。
さらに、特別閲覧室は、社会人専用席以外、着席前に自由に席を選ぶことができる。決まって、友人と一緒にやってくる高校生達は、隣わせの席を指定する。そして、着席後、10分も経たずにおしゃべりを始めるのだ。なぜ、わざわざ特別閲覧室まで勉強しに来るのに隣り合わせの席を希望するのか? グループ学習の場ではないのだから、おしゃべりしながら和気あいあいと勉強した気になりたいのなら、ドリンクバーでファミレスにでも行けばいいじゃないかと(注:現在、長時間の学習目的の場合、利用を遠慮してもらうファミレスも多い)。
諸葛孔明の言葉にも『それ学は須く静かなるべし』とあるじゃないか。本義はちょっと違うけど、広い意味では、「学問を修めるためには、心を静めて専念し、学問と自己をきちんと対峙させる必要がある」という感じで合っているだろうとまたイラつき始める。
心泡立つこと
だが、本当に心泡立つのは、特別閲覧室での高校生の私語にさいなまれることではない。それは、私語をやめない高校生に注意をした後のあの何とも言えない後悔の念からくるものなのだ。
「最近は大人が子供を叱らない。昔は地域社会が子供の教育に積極的に貢献していた」という言葉は、自分が子供時代からよく言われている事だから、今に始まったことではない。誰かよその人の話ではなく、自分自身が当事者となったとき、毅然と子供に注意できるだろうか?
高校生ともなれば、体格も大人顔負けのことが多く、口で注意して、暴力で返される恐れもあるだろう。「おやじ狩り」という言葉が世に登場してずいぶん経つ。
ただ、自分が高校生に注意するのは、あくまで個人的経験に基づく局所的統計に過ぎないのだが、圧倒的に女子高生であることが多い。男子学生は、頻度として私語することが相対的に少ないし、一度注意すると次からは気を付けるようだ。一方で、女子高生の方は、自分みたいなおじさん(もう、おじいさんの域に達しているが)に口で注意されても気に留めることなく、しばらくするとまた私語を再開する。
特に、悪質な子たちが、わざと自習室を避けて、特別閲覧室で、気ままに私語しながら勉強した気になっている節がある。それゆえ、注意する方の自分も高ぶる怒りを隠すことが難しくなり、注意・忠告に怒気が含まれてしまうこともしょっちゅうだ。
「うるさいなー。ここはしゃべるところじゃないだろー」
突然、隣に座っていたおじさん(おじいさん)から、こんな怒気を含んだ注意を受けると、場が気まずくなるし、言われた方も、それを耳にした第三者も気分が悪くなるのは当然だ。それは、言った本人も同様で、高校生に私語を注意(イラついてでも優しく言っていても同じ)した日の就寝前は必ず、自責の念に駆られるし、もっと上手に場を取り納める所作はないものだろうか、といつも思い悩むのだ。
対人の悪感情では全くなく、あくまで自己鍛錬の未熟さに押しつぶされそうになる。いくつになっても修行が足りない。「困ったものです(古泉一樹風)。」
柔らかい心を持つのが大事
そういう特別閲覧室での私語に思い悩み、自分の未熟さの取り扱いにあきれている中、衝撃的なことを体験した。
その日も、特別閲覧室で読書や調べ物をしていると、また常習犯の女子高生二人が私語を隣の隣の席で始めた。ひそひそ始めた女子高生たちと自分の席の間で、おそらく、80代と思しき老紳士が、一心に書き物をしていた。
一際、女子高生たちの私語のトーンが高くなって、もうそろそろ自分も我慢の限界が来たようだ。口に出して私語を注意しよう、でも、ここまで我慢した結果、怒りがけっこう蓄積されているから、また怒気を含んだ注意の口上になってしまい、結局寝る前にまた思い悩むんだろうなあ、とまで一気に思考を進めていた矢先のことだった。
突然、自分と女子高生たちの間の席に座っていた80代と思しき紳士が、「ほら、万年筆2本持っているんだよ。1本貸そうか?」と、隣で私語に勤しんでいる女子高生に笑いながら話しかけたのだ。
もちろん、件の女子高生2人組は、私語を中断して黙り込んだ。彼女たちの表情は狐につままれたようなきょとんとした顔と、ビックリした顔と、老紳士に対するいぶかしさをあらわにする顔をミックスしたようなものだった。
自分みたいに怒気をあらわに私語を注意するわけでもなく、その老紳士は、女子高生の私語を完全にシャットアウトしたのだ。しかも、その老紳士が就寝前に、万年筆のくだりを思い出して自責の念に駆られることも決してないだろうと思えるスマートな所作で。
これが「亀の甲より年の功」というのか、その老紳士のこれまでの精神修養の成果なのだろう。彼のその言葉を聞いた自分が驚愕の気持ちを抱きつつ、自己の心身修練の足りなさに反省を覚えたのは語るまでもない。
その昔、「欽ちゃんのどこまでやるの!」というバラエティ番組の特別復活版で、真屋順子さんが、萩本欽一さんに、「電車で隣に座った男子学生が膝に乗せた大きな荷物が自分の膝にまでかかってきて困る」と相談した時、欽ちゃんが「どうして膝に大きな荷物を載せているのかなー。ちょっとはみ出して私の膝の上にかかっているんだけどなー、と笑いながら話せばよいよ(口上の大部分は脳内記憶)」と返されていたことが不意に記憶に蘇ってきた。
柔らかい心を持つ大人(老人)にいつかなりたいものです。
セトモノとセトモノと ぶつかりっこすると すぐこわれちゃう
相田みつを
どっちかやわらかければ だいじょうぶ
やわらかい こころを もちましょう
そういう わたしは いつもセトモノ
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