■ “和牛の神様”と呼ばれる男 愛情を込めた極上の牛
『九州に、和牛の神様あり』
宮崎牛が5年に一度、日本一を決める「全国和牛能力共進会」で史上初の2連覇を達成!その立役者が宮崎県最南端の串間にいる。和牛の神様と呼ばれる男、鎌田秀利。
独自に配合したエサと徹底した栄養管理で日本一の肉質を生み出す。愛情の数でこの仕事は決まる。繁殖から肥育までぴか一の技術を持つ鎌田。育てた牛の評価はけた違いだ。全国の仔牛の平均価格は68万円だが、この日のセリでは168万3千円もの値がついた。日本の職を背負う現場がここにある。
この仕事は大変だよと事前に言われていた。朝6時から深夜まで、とにかく一日中歩き回るという。普通なら1年は持つ長靴を鎌田は2ヶ月ほどで履き潰す。鎌田が飼っているのは黒毛和牛200頭余り。多くの肉牛農家は買ってきた仔牛を育て出荷するが、鎌田は繁殖から肥育まで一貫して行う。全国でも珍しいこの農法にこだわるのは、生まれたての頃から目をかけないといい牛に育たないとの信念からだ。牛はデリケートな動物で、ちょっとした環境変化で体調を崩してしまう。そのため、鎌田は牛たちにとって最高の環境づくりに腐心する。温度や湿度が気になれば、牛舎の周りの木の枝を切る。匂いも重要な要素だ。寝床のおが屑も古いものを敢えて少しだけ残し、においが全く変わらないようにし、牛が落ち着けるように注意する。
『見えないものを、見る』
この日、見回りをしていた鎌田が足を止めた。生後間もない仔牛が下痢をしていた。すぐに薬を作り始めた。作ったのはなぜか、母牛に飲ませる薬。便の色から、母牛の体調の変化が仔牛に表れたのだと読んだ。
「目に見えることは誰でもやるからですね。見えない部分をどうやって補ってやれるかが、この仕事の一番のポイントになるのかな。やっぱり見えないところの仕事がうまくいかないと、成り立たないのが農業。そこにどれだけ本当に一生懸命力を注げるか」
見えないものを見るため、どれだけ牛の心になりきれるか。その姿勢は徹底している。鎌田は日中ほとんど食を摂らず、ガムをかむ。
「何をモグモグ、牛と一緒だと思えばいいとよ。反すう(牛の咀嚼)をしとるちゃ思えば。気持ちも(牛と)一緒にならな。」
■ 肉牛農家の技術の結晶 世界に誇る霜降り肉
鎌田さんが育てた牛は30か月、およそ2年半で加工場に送られる。鎌田さんは仕上げた牛の肉を必ず確かめる。
「食べていただく人たちにおいしい肉をどういうふうにして、さらなる上を目指すじゃないですけどね、そういうことを考えていかないと、やっぱり毎日努力していかないと。」
鎌田さんが育てた霜降り肉は通常の5倍の値で取引される。鎌田さんを含む日本の農家の多くが、この脂肪を肉に入れる技術を追求してきた。
『日本が誇る、食の芸術品』
霜降り肉は海外の肉との競争を勝ち抜くために考え出された日本オリジナルのもの。和食ブームの今、世界各地で人気を博している。輸出額はこの10年で15倍に拡大。霜降り肉は農家の未来にとって、大きな可能性を秘めている。
■ 世界に誇る極上の霜降り肉 “神業”と呼ばれる飼育法
世界に誇る霜降り肉を生み出す鎌田。その真骨頂は常識破りの栄養管理にある。牛はエサを与え、太らせるだけでは質の良い霜降りにはならない。
「一番は私の愛情が入っていますんでね。」
きめ細かい脂肪を入れるには、ビタミン量の調節がカギになる。牛は体内のビタミンが減るにつれ、蓄える脂肪が増えていく。そのため、肉牛農家はビタミン量を減らして肉に脂肪を入れていく。しかし、減らしすぎると体調を崩してしまう。ビタミンを減らしながら育てるのは至難の業だ。だが鎌田は一般の農家の半分までビタミン量を減らすことができる。
「ビタミンレベルっていうのがあるんですけど、大体30から40まで落とせばいいって言われているんですけど、自分の場合は大体20以下まで一度ちょっと落とすもんだからですよ。」
他の農家から“神業”と呼ばれる鎌田の栄養管理。それを実現するひとつの流儀がある。
『×食べさせる → ○食べてもらう』
鎌田は決して無理にエサを食べさせることはしない。5kg、4kgと毎日、牛の調子を見ながら、エサの量を変えていく。そのうえで成長の度合いに応じて、独自にエサの配合をブレンドする。ビタミンの多いトウモロコシからタンパク質の多い大麦をはじめ、海藻や大豆、米ぬかなど、10種類以上を使い分ける。さらに、通常は朝夕2回のエサやりを、鎌田は一日4回に小分けして行う。手間は倍かかるが、意に負担をかけないように心掛けている。この日、4回目のエサやりが終わったのは午後10時過ぎだった。
一日を終える前、鎌田はひとつのことを自らに問いかける。
『精いっぱい、命に向き合ったか』
「まだまだですよ、まだまだ。これでいいっていうことはないもんな。やっぱり、まだわからないことがいろいろあるし、ちゃんとしてやれないこともいっぱいあるし。まだ牛が、『もういい』って言っていないような気がするから。『もうちょっと頑張らんとだめよ』って言われているような。」
365日、毎日妥協なく努力し続ける。それが鎌田の日常だ。
月に一回の出荷の日。30か月育てた牛を見送る。
「まあ、いろんなことを考えると、ちょっと、じーんとくるもんがありますけれどもね。ちょっと、涙が出るところもありますけど。そりゃ、割り切れるかって言われたら、割り切れるものではないとこはありますね。でも、人の何らかの形でお役にはたてているのかなって。そういう風に思えば、こういう仕事もありかなって。」
■ 宮崎を襲った口蹄疫の悲劇 “和牛の神様”の覚悟
平穏な毎日。しかし、5年前は違った。宮崎を口蹄疫が襲った。あのときのことを語ってくれた。
「言葉が見つからなかったですもんね。「(口蹄疫が)出た」って言われたときは。「ああ」って言うだけで、もう後はずっと沈黙ですよ。でも不安ありながらも現実として自分らには、今生きて産まれてくる子供もあり、出荷していく牛もいるわけだから、やっぱりそれをちゃんとしていくってことを一番考えた時期でもあったのかな。」
29万頭もの家畜が殺処分された口蹄疫の悲劇。あの日を境に鎌田さんも変わった。
『命を育むものとして』
肉牛農家は儲かる。その言葉で鎌田さんの人生は決まった。24歳の時、地元の農場に就職。負けず嫌いな性格から、誰よりも早く牛舎に入り、600頭もの牛と向き合った。
「(1頭)50万で計算しても3億じゃと。(売上)数字を出すことが自分が認められること。そのためにはやっぱりいい牛をつくっていかな仕方ない。」
少しでも儲けようと牛を早く太らせることに躍起になった。ひたすらエサを与え続けた。出荷した牛の8割を最高級レベルに近い4等級以上に仕上げ、ノルマの倍を売り上げた。
「もうギラギラしとるっていう、「なんで俺がやったのに(最高級の)5等級じゃねえんか」ちゅうような気分でしょうからね。「ここまでしたのに何で(霜降り)入っとらんじゃこの牛は」と。」
そして、40歳の時、1億円の融資を受けて独立。結婚し、子供も生まれた。しかし、間もなく壁にぶつかった。いくらエサを与えても、牛たちが思うようにエサを食べない。牛たちの血液や水質などを調べたが原因は一向に分からない。質の良い霜降り肉を作れなくなり、売り上げは低迷した。
「めいいっぱい(お金を)借りれるだけ借りたからですね、仕事始めてから結婚したからですね、まだ子供も小さい。ほんと、どうなるやろねっていう不安もありましたよね。」
そのさなか、あの事件が起きた。口蹄疫が発生。感染の恐れのある家畜は全て殺処分された。鎌田さんの農場がある地域は殺処分を免れたが、想像を絶する数の家畜の殺処分の数に胸が張り裂けそうになった。
「人のためになる死、食される死と、死んでいく死っていうのは、これはもう比べるものではないですからね。やっぱり畜産農家にとって家畜が死ぬというのは、これが一番の悲劇。やっぱり悲しいこと。できれば一生避けたいことですもんね。」
5か月後、口蹄疫は収まったが、次に待っていたのは風評被害。1000件を超える肉牛農家が廃業。産地復活のためには、質の良い肉を作り信頼を取り戻すしかない。でも鎌田さんの牛たちは思うように育ってくれない。
『牛は精いっぱい、生きちょる』
鎌田さんは決めた。とことん、牛の立場で考える。一日、何度も何度も牛を見て回った。風通しはどうか、日当たりはどうか。一頭一頭エサの配合や量を変えた。牧草も食べやすく短く切った。
「自分もな、野菜をそのまま1個まま出されても、食べる気はせんやろうからな。まあ、牛も一緒よ。自分本位でやり始めたらいくらでも楽はできるからな。それし始めたら果てはない。自分と牛を常に重ねて、同じ立場で物事を考えてやらんと。やっぱり、そうすることが私らの仕事じゃ。」
それから2年。鎌田さんの肉牛は日本最大の品評会で日本一に輝いた。牛の生育に何が正解なのかは分からない。でも結果は牛が教えてくれる。そのことを胸に鎌田さんは牛舎を今日も歩き続ける。
■ 異常気象の夏 緊急事態! 仔牛の命は?
この夏は異常だった。6月7月の降水量は倍以上。気温も高く、牛舎は蒸し暑い日が続いていた。環境の変化に敏感な牛たち。特に生後数か月の仔牛たちにとってこの異常気象は命にかかわる。この道30年の鎌田。厳しい夏を迎えた。
『わしが、ついちょる』
鎌田が異変に気付いた。生後一月の仔牛が立ち上がれずにいた。すぐに獣医を呼んだ。脹のねじれが疑われた。筋肉の緩める薬と点滴を打ち、様子を見ることにした。それから2時間後のことだった。突然のことだった。仔牛はそのまま息を引き取った。原因は不明。鎌田にとっても経験の無いことだった。だが事件はこれで終わらなかった。3日後、気がかりな牛がいた。出産を控えていたが、予定より1週間も早く産気づいている。肉牛農家にとって出産という仕事は最も難しい。特に夏場は母子ともに著しく体力を消耗するため、危険が伴う。更に折からの異常気象。出産には最悪ともいえる環境だった。
胎児を覆う膜は見えるものの、なかなか産まれない。鎌田はある可能性を考えていた。仔牛の態勢がおかしく、どこかで引っかかっているのではないか? 鎌田が動いた。自ら仔牛を引き出す。鎌田の予感は的中。夜11時過ぎ。1日がかりの難産を乗り越えた。ところが、母牛が41度の高熱。体調が悪く、母乳の出も悪い。このままでは仔牛の命も危険だ。
「牛の命を守れんと、わしは家族を守れんっちゃからな。」
鎌田は賭けに出た。強い解熱作用があるステロイドを打つ。ステロイドは免疫力を低下させ、産後はリスクが大きいが鎌田は踏み切った。ずっと見守り続ける鎌田。2日後、母牛の熱は何とか下がった。しかし、母乳が十分に出ない。応急処置として粉ミルクを飲ませる。仔牛は拒んだ。いっそ母牛から引き離し、人工的に育てる手はある。だが、母乳を欲しがる仔牛。母牛もそれに懸命に応えようとしている。
「牛に対しての礼儀じゃないけどな。そこまで親牛が一生懸命になっとるちゅうのがやっぱり子供を育てようとする力。それに勝るもんなないやろな。これを一番大事にしたいじゃない。しかし、水分と最低限の栄養は補給できたとしても、長引けば仔牛の発育に影響する。今の自分に何ができるか。
『牛は精いっぱい、生きちょる』
鎌田は雨で汚れた床を掃除し始めた。せめて母牛を少しでもリラックスさせたい。
「答えはないよ。そりゃ。答えを出そうとかっちゅうふうな考え方で、算数式に牛に向き合えるかって言ったら、そういうもんじゃない。そこに人間が答えを求めること自体が、私は失礼なことじゃと思う。どの牛も精いっぱい生きちょる。その30か月という期間をどれだけ精いっぱい真剣に向き合うか、これが答えじゃと思う。」
生きようとする親子。あえて手助けせず、ぎりぎりまで辛抱する。出産から2週間が過ぎた。母乳が出始めた。仔牛はそれを力強く飲んでいた。
「牛は応えてくれたんじゃと思うよ。やっぱりこういう自然な姿になるとこっちまでほっとするからね。もう本当、後は牛の力を信じて、私らはいつも通りに仕事をしていって、環境を整えてやるだけよ。それ以上のこともできないしね。」
この夏も、これからも、牛と共に生きていく。
プロフェッショナルとは?
「プロフェッショナルな、わしはそんなもんじゃないけどな。
なんやろね、都合のいい妥協をしないことやろね、何事にもね。
一生、牛と向き合わないといかんからな、わしらはな。
そこに妥協があっては、失礼やろうで。」
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