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「万人の万人に対する闘争」 -トマス・ホッブズ

所感
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■ 戦いがもたらす緊張感にお疲れのあなたへ

清教徒革命の際に、「リバイアサン」を著述したトマス・ホッブズ。その著書の中で、「人間の自然状態は、決定的な能力差の無い個人同士が互いに自然権を行使し合った結果としての万人の万人に対する闘争である」とし、「この混乱状況を避け、共生・平和・正義のための自然法を達成するためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を国家(コモンウェルス)に対して全部譲渡(と言う社会契約を)するべきである」と説きました。

これが、王権神授説による中世的な社会の統治思想から、社会契約論に基づいた絶対王政を合理化する理論を主張したものであることはあまり世に知られてはいません。この理論は臣民の自由が主権者の命令である法の沈黙する領域に限定されているが、「自己防衛」の場合に限り主権者に対する臣民の抵抗権が認められる、とあり、それ以外は逆に王権に従うものということを積極的に主張しているとも理解できます。

この理論の使い方があながち間違いとは言えないかもしれません。というのは、人間はいちいち全部の事柄を疑ってかかって生活していては、精神が疲弊し、どこかで安らぎとか安寧を求めがちです。それが、放っておいても政治をやりたがる王族にでも、政治をやらせておいて、どうしても自分の生命・身体の自由が侵されそうになった時にだけ反抗する、というのは、日常の大変なことは一旦棚上げにして、王族に任せて、自分は生活を楽しむという賢い選択なのかもしれません。

それはそうだけれども、私は日常から自分の行為や生きる意味を積極的に考え続ける人生を選びます。そこには緊張があり、油断も隙も許されない厳しい生き方だけれども、そういう厳しい日常の先にこそ、見えてくる何かがきっとあると信じているので。ただし、それを他の人に強要するほど、私は傲慢なつもりもありません。生活の一部を誰かに委ねて、少しくらいは楽な時間を過ごしたいと思うことは罪ではありません。

ただし、自分の生活は自分で守る。自分の意見を通すためにはそれ相応の代償を払う。そういう生き方の方が、自分らしいと心の底から思えるし、そういう自分らしい生き方は自分に対しては誇りに感じることができるし、周囲の人からどういう風にみられるかについては、二の次と考えています。

しかし、「万人の万人に対する闘争」しかこの世にないのだとしたら、心の安寧とか安楽な生活はどこにもないのかも。いいえ、須らく人は代償を支払って、部分的にそういう安寧・安心・安定を得ているのです。サラリーマン(これは日本社会にしか存在しない社会階層を意味するので完全に日本語ですが)になれば、税務や社会保険手続きの煩わしさから解放され、一定程度の雇用の安定と食べていくだけの固定的収入も確保されます。でもそれは、組織の中で発言権を失ったり、労働時間により自由時間の占有が起きていたりと、それなりの代償を支払っていることにも注目した方がいいです。楽した分、損している分もありますから。

そういう意味では、己の才覚に丁度適したリスクとリターンが得られる生活圏を築くのがバランスの取れた一番賢い生き方なのかもしれません。最後に一番大事なことは、その適度を自分で選ぶ自由があるかどうか。これが一番大事だと思いますよ。

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