謙譲の美徳を勧める言葉として受け止めていません
この言葉は世の中で広く伝わり、言葉遣いに様々なバリエーションが存在します。一般的には、江戸時代後期、越後(今の新潟県)の曹洞宗の僧侶、良寛和尚の言葉とされています。
「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」という表現など、あまり出典にこだわることなく、その人が受け止めやすい語呂の良いものを、自分に言い聞かす言葉として胸の内に持っておくのがいいのかもしれません。
もちろん、良寛和尚は仏典から「お説教」のひとつとして、この言葉を用いたそうで、いろいろと調べると、座禅や己と世の中とを切り分けない世界観を説明する内容なのだそうです。「お説教」といっても、宗教の教義・教典を、その信者や民衆に、口頭で分かりやすく説明する方の意味ですよ。
私はこの言葉を知った時から、大事にしているのですが、決して、謙譲の美徳を勧める言葉として受け止めてはいません。腰を低くとか、感謝の気持ちをもって日々を生きようとか、こうあるべきという姿=理想を自分に言い聞かすために、この言葉を日々噛み締めているのでは決してありません。
自分の無力さに打ちひしがれたときに唱えます
天台宗の開祖、伝教大師 最澄の「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」という言葉があります。「自分のことは後にして、まず人に喜んでいただく。それは仏の行いであり、その行為で人は幸せになる」とでも解釈できますでしょうか。
これを端的に表す言葉が、「忘己利他」です。宗派は違えこそすれ、元を辿ればブッダの教えです。お釈迦様の世界観がとてもよく分かる言葉です。「もう懲りた」ではありません。^^)
このように、一人のブッダ(お釈迦様)の言葉でも、解釈ひとつで様々な教えとなります。真面目に追究しようとすればするほど、解釈は多義的になるものです。ですから、冒頭の言葉も、出典や発話者である僧侶の仏教的裏付けがない解釈がされても許されると考えている理由がここにあります。
そして、私はこの言葉を、仏教の教えを少々読みふけり自分なりに考えたうえで、自分が使いやすいように解釈し直しています。
それでも、仏教もしくは老荘思想の影響は受けていることを自覚の上で、冒頭の言葉は、頑張ったけれど、結果が思うようにならなかったときに感じる無力感、虚脱感から救われるために使っています。
万有引力の法則からロジックが始まります
勉強や仕事、スポーツ競技などで頑張ったけれど、結果が思わしくなかったとき、どうやって自分を慰めていますか? 小さい挫折にはめげずにどんどん前向きに挑戦し続けるバイタリティがある人にはこういう慰めの類は不必要かもしれません。けれど、世の中、そんな強い人ばかりではないはずです。
私は、心が挫けたとき、この言葉を思い出して、もう一度、前向きになれるように、自分の感情を誘導するように心がけています。
どうやって、この言葉を使って、挫折した心をもう一度前向きにできるのか、自分なりのロジックはこうです。
ちなみにですが、現代に主流になっている西洋の科学文明は、ケプラー以降、神様(キリスト教)への信仰心が募って発展してきたのは明らかにされています。意外に科学と宗教は同根ですよね。
えっ、いつもこんなことを考えている人は不気味ですって? 最近嫌なことがあって落ち込んでたから、自分を元気づけるためにこじつけているだけですよ!お粗末様!^^;)
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