■ 罰を与えず、不自然な論理的結末を体験させて気付かせるのだ!
罰を与えるのではない。
結末を体験させるのだ。
子供が食事の時間になっても帰ってこなければ、
一切叱らずに食事を出さなければよい。
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アドラー心理学が、「叱らない」しつけ論を唱えても、それに代わる方法論を教えてもらわないと、それに倣う勇気は出ません。そういう意味では、アドラー流教育を施してみようかな、と思わせる一節がこれです。
本書には、夕食の時間を決めたにもかかわらず、遊びほうけて帰宅してこない子供が母親に夕飯をねだってきたとき、「約束の帰宅時間に遅れてきたからもう夕飯は無いわ」と答えればいいとの指導方法が紹介されています。
これについて、下記のように解説文が続きます。
これは先に示した自然の結末とは異なる論理的結末を体験させる、という方法です。これは子供だけでなく、大人に対しても有効な方法でしょう。例えば、納期を守れなければ担当を替わってもらう、など応用が可能でしょう。ただし、この約束が理不尽なほど厳しい場合、相手はこれを約束と思わず「罰である」と思うでしょう。また、結末を体験させるときにクドクドと嫌味を言ってはいけません。それも「罰」になってしまうからです。罰を与えるのではなく、結末を体験させて気づかせる。それがアドラーの教育なのです。
子供が何か悪さをした時、部下が仕事上でミスをした時、多くの親や上司は、子供や部下をクドクドと叱りつけます。それでも言うことを聞かない相手に対して、なすすべもなく途方に暮れてしまいます。しかし、子供や部下には、「罰」ではなく、「結末」を体験させれば、その結末が自分にとって好ましくない場合、強制せずとも自分から、その望ましくない帰結をもたらす問題行動を改めるようになるでしょう。
私も若手の教育に手を焼くことがたびたびあります。何度も、クライアントに出す資料を事前にレビューさせてね、とお願いしても、勝手に作って勝手にクライアントに見せてしまうメンバがいるものです。そんなメンバは、自分に大層自信があるのでしょうが、さすがに経験量が違うので、私が見ると穴だらけの資料だったりします。そして、案の定、クライアントから不出来を指摘されて、再作成の憂き目に会います。
そういう場合、十分に反省の色がある場合はそのまま再作成を手伝います。それでも自分で何とかしようとするメンバはそのまま放置します。やがて、のっぴきならない状態に陥ります。そこで初めて、丁寧にそういう事態になった理由を説明し、資料の再々作成を手伝ってあげます。自分で痛い目に遭って初めて自分に足りないものが何かを知ることができます。そして、自分のミッションを達成するためには、くだらないプライドは捨て去り、上司(私)の知恵を逆に利用してやる、と思うようになるまでに至ったら、その人はずいぶん成長したものだ、と感心してあげることにしています。
それでも、何とか自分でやろうともがいて苦しんでいる若手メンバがいたら、、、、?
私は救いの手は差し伸べません。クライアントに対しては最終的に品質担保責任が自分にありますので、私が勝手に部下の代わりに仕事を完遂させてしまいます。仕事の出来栄えを部下に見せつけるように。
それでも、改心しないメンバがいたら、、、?
もう何も言いません。あのね、何も言ってもらえないというのが一番の仕返しになるし、その人にとって最悪の事態なのですよ。だから、私は、自分の仕事の出来栄えをクライアント、部下、上司に必ずチェックしてもらい、感想を聞かせてもらうようにしています。この歳になってくると、アドバイスをもらうのが年々難しくなってきているので、、、(^^;)
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