■ 共同体感覚とはより大きな集団の利益を優先して養われる!
判断に迷った時は、
より大きな集団の利益を優先することだ。
自分よりも仲間たち。
仲間たちよりも社会全体。
そうすれば判断を間違うことはないだろう。
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アドラーが提唱する「共同体感覚」における共同体は、何ら具体的な特定組織を指してそう呼んでいるわけではありません。あくまで抽象的にそう呼んでいるだけです。私たちはアドラーの教えをどのように日常生活に当てはめて、具体的に考えて理解すればよいのでしょうか。
「他者貢献」の対象に何を選定すればよいのか、その「貢献」の矛先に迷ったら、その「他者」の選定に迷ったら???
答えはズバリ、より大きな集団の利益を優先して、行動すること。
本書では、リコール問題を例に取り上げています。企業が供給する製品に不良があった際、すぐさま情報公開して、リコール(製品を回収して、無償で代品交換や修理をすること)を行えば、その製品の使用から健康被害や不利益を被る人の多くが救われる事でしょう。しかし、一時的に、その会社の信用は失墜し、イメージダウンにつながってしまうかもしれません。それでも積極的に、迅速にリコール処理を実践すれば、より大きな社会全体の不利益発生を回避できるだけでなく、その企業の信頼回復も早くなります。自社を守ろうとリコール隠しを決め、後々、ばれてしまって大事になってしまっては、企業が受けるダメージは、直接的な在庫廃棄や改修費用といった損失以上に、市場からの撤退や企業体としての存続を諦めるといった、より深刻な損失を招きかねません。
『最大多数の最大幸福』
ジェレミ・ベンサムによる功利主義(快楽や幸福をもたらす行為が善である)に基づく考えで、一人一人が幸福を感じる量を増やせば増やすほど、社会にとって良いことと考えを表す言葉で、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という主張を一言で表したものです。
彼はまた、「個々人が幸福と考えるものを形成し追求できるような私的不可侵領域を定めることによって、社会的な相互作用の基本的枠組みを提供する」ものとして、「法律」を捉えており、それが社会秩序をもたらした上で、個々人が自分だけの最大幸福を狙った個人行動にでても、その他の人の幸せの量を減らさないのならば(パレート最適)、その行いは善であるとする考え方にも通じます。
アドラーは、「自分ひとりだけの利益を考えてしまっては行動を誤ってしまう」と考えました。その判断基準は、「より大きな集団の利益」を最優先することが自分を含む社会構成員全員のより大きな幸福をもたらすとしました。
しかし、私を含む凡人にはなかなかその領域にまで達観することは難しいかもしれません。さすれば、もっと簡単な思考方法として、身の回りの家族や友人や同僚、上司や顧客の一人一人の顔を思い浮かべてみてください。自分のこれからの行動がその人たちをハッピーにするかどうかを考えて見てください。自分ひとりだけの利益を優先してきた行動原理とはまた違った判断が頭をよぎるかも。それは、アドラーの提唱する「共同体感覚」をあなたが身につけた瞬間と言えるでしょう。
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