■ 自分の命を何にかけることができるのか?
I am prepared to die, but there is no cause for which I am prepared to kill.
私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない。
(インドの弁護士、宗教家、政治指導者 / 1869~1948)
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あなたがもし相当な覚悟をもって人生を生きているのならば、その覚悟はどの方向を向いているでしょうか。自分と家族が十分に食べていくプラスちょっとの贅沢を味わいたい。そのために収入を増やしたいのだ。社会貢献に生涯をささげたい。現代社会には矛盾と解決すべき課題に満ち溢れている。正義を貫き通したい。この世には不正が運びって、善人が悪人(罪人)に虐げられている。
様々な思惑で人は努力をしたり、目標を立てたりします。そういう行動指針が何もない人は、まず行動指針を立てて、人生の行く末の視界を少しでも広げることをお勧めするのですが、今回はそういった行動指針の立て方の問題を取り上げています。
誰かに害意をもって意図的に私怨を晴らすとか、そういう類の行動指針を立てることはあまりお勧めすることはできません。あくまで方便として、一時的に周囲の人に迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、それを上回る善意をもって、実際に利得が社会的に増えるのであれば、一時的な齟齬には許容範囲で目を瞑ることもできるかもしれません。というふうにおおらかに考えることがいいのではないかと思います。
悪意や害意には、相手からも悪意や害意しかもたらされません。そういう負の連鎖は自分のところでいったん止めにしましょう。短期的には損をしているようでも、中長期的には、利己・利他的にも、ベネフィットがより大きくなっているかもしれない政策は世の中にはごまんとあります。
また、善意で良かれと思ってやったことが、相手にとってちっともいいことではないこともあります。それゆえ、行為者の善意か悪意かも、行為からもたらされる便益のプラスマイナスや大小には結果としては無関係であることにも配慮する必要があります。
誰かに何かを与える覚悟はもっていいけれど、誰かから何かを奪うことが最終目的である覚悟はできるだけ、その覚悟の気持ちを使わないで済む状況を生み出せないか努力する価値がきっとあると思うのですが如何でしょうか?
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