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勝つための交渉とは? - 「勝敗」を気にしている段階で負け

所感
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■ 交渉は本当に勝つか負けるかなのか?

交渉事を取り上げる書籍やセミナーでは、「交渉に勝つためにはどうしたらよいか?」とか、「お互いの妥協点を見つけて合意できるところを探すのが最良である」とか、いろいろな教えが言われています。本当にそうでしょうか?

私は学生時代、自分で「ディベート」サークルを立ち上げて、ディベート術を磨くことに集中していた時期があります。その年代では、まだ議論に勝利したかったし、議論に勝ち負けが存在すると信じていました。社会人になってしばらくしてから、議論や交渉事には勝者もいなければ、敗者もいないことに気づくことができました。

そこには、自分の意思を通せる人と通せない人が存在するだけです。

というのも、口論や議論で相手を打ち負かしていい気になっていたとします。言い負かされた方は、自分に悪意を抱くかもしれません。やがて時が過ぎ、かつて言い負かした人に助けを請わなければならなくなって、いざ助けを請うたとき、その人は容易に救いの手を差し伸べてくれるでしょうか?

もし、過去の口論で大変傷つき、言い負かした相手に対して復讐心に燃えている場合、何年経った後でも、その相手から救難信号が出されたとしても、反応する義理はない、と考え、捨て置かれる可能性の方が高いでしょう。相手が困っているときに手を差し伸べないことで、その人はかつての口論相手に復讐を遂げることができるのです。

では逆の場合はどうでしょうか? 口論で言い負かした相手に、どうしようもなくなって救いを求めて、その相手が自分の思う通りに助けてくれたとしたら? 相当の期間、その相手には頭が上がらなくなることは想像に難くありません。でも、今度は、その言い負かされた人が言い負かした人を後日、助けたことにより、相手を征服したり、助けなかったことにより、復讐を果たしたり、そういうことで人生において勝ち負けという視座でそれら一連の行為を眺めることが本質的なものの見方なのでしょうか?

私は、須らくすべての交渉事は神事(しんじ)に等しく、勝ち負けがはっきり決まるものではなくて、自分の意思が通せた通せなかったの違いがあるだけで、最後は神(あるいは仏)の御心のままに、と本当にそう思っています。

全力を尽くして交渉事で優位に立とうとしますが、それは相手に勝つことではないのです。自分が自分の人生において通したい意地とか、意見とか獲得したい立場があり、それらを実際に手に入れることができたかできなかったかということで、神(あるいは仏)と自分しかそこに存在せず、係争相手も視野の外にあるのです、私の意識においては。

M&Aには勝者と敗者はともに存在しないのです。いるのは、よりお金を手にした人かしなかった人だけです。
(by 鷲津政彦)

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