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マルクス・アウレリウス・アントニヌス(2)お前の内を掘れ。掘り続ければ、善の泉がある。

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幸福になるために

お前の内を掘れ。掘り続ければ、そこには常にほとばしり出ることができる善の泉がある。

「自省録」7・59
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
アウレリウス胸像(メトロポリタン美術館所蔵)

(第16代ローマ皇帝 / 121~180)

マルクス・アウレリウス・アントニウスは、ストア派の哲学者です。高校世界史のレベルでは、禁欲主義的なストア派と、快楽主義的なエピクロス派は対立概念のように教えやすく教えられ、受験用に簡単にステレオタイプのまま暗記されていきます。

ですので、ストア派は、孔子が始めた儒教(儒学)と同じように、聖人君子となるために、己を厳しく律することが必要で、常人にはちょっと実行しにくい哲学のような印象がもたれているかもしれません。

言行とか品性について厳しく律する「教え」かどうかは別として、思考の態度としては、確かに厳しいものを要求しているかもしれません。ただ、厳しいといっても、「理性を正しく働かせてください。そうすれば、誰にでも納得できる結論が得られるはずです。自分で納得できれば、物事を受け入れやすくなり、心の安寧を維持することができますよね」という精神状態に自分を持っていきましょう、と言っているだけなのです。

それは、「幸せになるためには、ちゃんと自分の思考や感情と向き合いましょう」ということなのだと思います。

内を掘るとはどういうことか?

人は誰でも、自分の、場合によっては周りの近親者の幸福を願う存在だと思います。そして、幸せになろうと努力したり、それを願って日々生活したりしていると思います。しかしながら、幸せになりたいと思いながら、幸せになる方法を間違っていれば、動機と結果はおのずと乖離していきます。その乖離の幅が大きければ大きいほど、人は不幸感を受けているのかもしれません。

では、どうすれば、その乖離を小さくすることができるのでしょうか。できるだけ、知性とか理性を働かせて、自分の言動や、自分が置かれた環境について、よく洞察することです。ある程度のことならば、落ち着いて心の中にある常識(=良識)に従って行動していれば、そうそう間違った選択を取らないものです。

もし、幸福になりたいと心の中で願っているにもかかわらず、幸福でないとしたら、ストア派的な考え方に基づくと、それはあなたが理性を正しく働かせて、自分の言動を幸せになるように調整していないのだ、ということになります。

「内を掘る」という言葉は、幸せになるために、自分がどういう言動をしているか、ちゃんとチェックしてみましょう、ということなのです。

他責主義で本当に幸せになることができるのか?

もしかすると、人生の中でいろいろな困難に直面し、自分の力ではどうにもすることができないことが生じるかもしれません。私だって、しょっちゅう、自分の無力感に打ちひしがれたり、なんでこうなるんだ、という怒りをあらわにしたりします。

腹を立ててはいけない、ということを言っているのではありません。私は、常に「アンガーマネジメント」を意識しないと、周りの人に不快な思いをさせてしまう、あまりイケていない性格をしています。その長い経験から、本当に自分が怒りを覚えるのだったら、その怒りは面に出したほうが精神衛生上、かなりいい具合に働くと思います。怒りを内に秘めて、フラストレーションを高めて、そのストレスが精神と身体を痛めるより100倍ましです。

だけど、怒りを現すことで、自分のフラストレーションを発散させて、心身に対するストレスを軽減することが目的であって、誰かに怒りをぶつけることが、そもそもの不幸の原因を除去してくれはしない、ということも、同時に知っておく必要があります。

自分はなんて不幸なんだ、と感じる理不尽なことが長い人生、しょっちゅう起きるものです。そして、一時的にはストレスを減じるために、怒ってもいいかもしれません。ですけれど、あなたが怒ったところで、あなたが起こるに至った問題を無いものにしてくれる可能性より、その問題を回避して、なかったことにする知恵とか、そもそものその不幸の根源たる問題を解決しない限り、あなたは幸福感を得ることはできないと思います。

他責主義より原因探求や方策研究のほうが都合がよいはず

つまり、「他責主義」を振りかざして、自分の不幸を他人のせいにして怒りをぶつけてみたところで、真因は解決されずにそのまま残ったままです。あなたの不幸を感じてしまう諸元はそっくりそのままです。何も変わらず、です。「他責主義」は一時的に、怒りの矛先をそちらに向けておくだけのことで、怒りを覚えるそもそもの原因を取り除いてくれません。

むしろ、他人を責めることで、責められた他人が、仕返しをしたり、あなたから距離を置いたりするだけで、誰も進んであなたが感じる不幸の元を断ってくれようとはしないのです。

さすれば、「他責主義」は不幸をもたらす問題を解決する資料の手段ではないことは明らかです。だからこそ、自分が幸福になるために、自分の言動がどうあるべきかを考えたほうが、自分の不幸を誰かのせいにするより、きっと100万倍も幸せになる早道であるはずです。

幸せかどうかは、その人が、外界の在り様をどう感じるか、という問題である、といっても過言ではありません。だからこそ、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、「内面を掘れ」と言っているのです。

「財布を無くした」→「あの人が急がせたから、不注意で財布を置き忘れてしまったんだ」

より、

「財布を無くした」→「これから、どうしたら財布を無くさずに済むか、いい確認方法はないだろうか?」

とか、

「財布を無くした」→「交番に届けてみよう。もしかしたら、親切な人が拾って交番に預けてくれているかもしれないから」

とか、

「財布を無くした」→「もし、拾った人が自分よりお金に不自由して大変な目にあっているとしたら、財布に入っていたお金は取り戻せないけれど、それで誰かがちょっとだけ、いい感じになってくれれば、しょうがないとするか」

という風に、もし考えることができるとしたら、それは幸せになる思考方法を持ち合わせている、ということになります。誰かを非難している時間と手間のほうがもったいないです。そんなに人生は暇ではありませんよ。

お天道様が裁いてくれるのに、なんで自分の手を汚さなくてはいけないのか

最後の、「拾った人が有効に使ってくれれば、それでいいか」という考え方は、損得勘定から言っても、十分に成り立っていると考えています。誰かが犯罪だとか、不道徳なことをやらかしてしまった場合、どうして、あなたが直接手を下して、罰を与えなくてはいけないんですか? 罪には罰を、というけれど、その罰は、「復讐法」だけが社会を律する時代でもない現代において、必ず、あなたが手を下す必要はあるんでしょうか。

自分が直接手を下さなくても、その悪事を働いた人がどこかにいたとしたら、その悪事は、お天道様とその本人だけは必ず知るところになります。その人は、よほど物忘れが激しいのではない限り、自分の犯した悪事のことは覚えているはずです。もし、罪悪感が少しでもあれば、自首をして自ら罰を受けない限り、一生、その罪悪感をぬぐうことはできません。死ぬまでその悪事を隠し通して生きること自体が、その人に下された罰なのです。

お天道様は全部承知しています。その人が死んだときに、必ず閻魔大王に言付けをしてくれるので、きっと閻魔大王が、事の真偽を明らかにして、地獄行きのお沙汰を下します。

だとすれば、自分が幸福になるためには、他責主義は直ちにやめて、自分の内面にきちんと向き合い、自分の言動を振り返り、もっと幸福になるための言動を、もっと確率を高く、もっと適切に、もっとうまい具合に選択できるように創意工夫することが、あなたを幸福に導く最善の近道なのです。

きっと、あなたの内面には、「善の泉」が存在しています。真摯に自分と向き合っている人は、必ず自分の心の内に、「善の泉」を見つけることができます。えっ、私ですか?目下、捜索中です。^^;)

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