どんな場所でもきれいな花を咲かせるのがプロというものです
さあ、プロ野球はキャンプインし、サッカーも開幕を迎えようとしています。悲喜こもごも、今シーズンもいろいろなドラマがきっと待っているに違いありません。その中で、自分のプレースタイルをどこまで誰が維持し続けることができるのか。そういう見方もまたスポーツ観戦の醍醐味かもしれません。
堂々巡りをしているようで、少しずつ進歩するものもなかにはある。僕も昨季と同じくトップ下を任されるけど、求められる役割は新しい。守備で自分が目を配る範囲もより広いし、よりスピーディーに攻守で仕事をこなさねばならない。つまり、より走る。この要求に応え、貢献したいね。
三浦知良(サッカー人として)「自分に目を向けるんだ」日本経済新聞|2020年2月14日
与えられた環境や制約条件は、むしろそれを歓迎すべきです。その制限それ自体が、自分に対する創意工夫を促すための切っ掛けにすぎないからです。環境や周りの人にせいにするのはやめましょう。見苦しいだけです。
与えらえた具材を使って最高の料理を出す。先に、こういう料理がしたいから具材を選ぶ、という好条件に巡り合えることは稀です。稀にしか起きないことを心待ちにして、日々の精進を疎かにしていませんか?
自分に集中する
毎シーズン、色々な監督や選手と出会い、新しい学びを得る。いや、同じ人物であってもその人は日々勉強し、刻々と変わっていくのだから、16年同じチームにいる僕でも常に新しい学びに触れているわけだ。
三浦知良(サッカー人として)「自分に目を向けるんだ」日本経済新聞|2020年2月14日
結局、観察対象から変化や気づきを得るのは、自分の感受性のなせる業なわけで。自分の中の解釈力を高めない限り、外界からの折角のインプットも、その貴重さに気づくこともなく、スルーしてしまいます。
かといって、目に入るもの、耳に聞こえるものすべてに反応するようにしても、疲れ果ててしまうので、そこは取捨選択が必要になります。この何を捨てて何を拾うかという永遠の問題。これを器用にできるようになるために、すべての分野における超人と呼ばれる人たちは努力を続けているわけで。
自分を乱しちゃいけない。今はそう言い聞かせ、日々と向き合っている。自分に集中するんだ、と。
三浦知良(サッカー人として)「自分に目を向けるんだ」日本経済新聞|2020年2月14日
イチローもカズも、毎日のトレーニングとコンディショニングづくりへの集中力は半端ないことは、私などが繰り返すまでもありません。
他人に興味を持つ時間もないほど忙しいので、、、
「自分勝手に」という意味じゃない。人や周りがどうこう、ではなく自分に目を向けること。今の世の中、人のことばかり気にしがちじゃないですか? 有名人のスキャンダルにけしからんと憤り、他人の行為の是非に熱を上げる。サッカー選手もつい周りに目が向きがちになる。彼は活躍している、なのに自分は……。
三浦知良(サッカー人として)「自分に目を向けるんだ」日本経済新聞|2020年2月14日
過干渉はいけません。かといって無関心でもいけない気がします。ただ、忙しくて、他人のことにあれこれ気を回す時間がないんです。やりたいことリストは常に増え続けます。しかし、それをこなす時間をなかなか割くことができない。それくらいの距離感でいいんだと思います。
現役でいれば、そうしたものにとらわれ自分を見失うときもくる。プレーがさえない、出場機会に恵まれない、私生活が気にかかる。すると人間はひとのせいにしがちだ。監督が、仲間が、リーグが、社会が、時代が。そうじゃなく、「お前はどうなのよ?」と自分に矛先を向けてみるといい。
三浦知良(サッカー人として)「自分に目を向けるんだ」日本経済新聞|2020年2月14日
自責主義か他責主義かといわれると、自分は「自責主義」派です。それは、自分が責任が持てる範囲は、自分の目の届く範囲に限られており、自分が主体的に行動するにあたっては、すべてが必然として捉えるのが妥当的かなと思うからです。
それはどういう感覚かと申しますと、例えば、棚の上の胃薬を取り出そうとしたとします。掴みそこなって、床に落としてイラつくとします。そもそも、分包された胃薬の小さな包みを注意深く摘まみ上げれば、床に落とすこともなく、イライラすることもないわけで、そうなったのは、自分がそうしたからです、という達観を持った方が、心が軽くなるというものです。
いいことは偶然起きるが、悪いことは必然的に起きる。
それぐらいに覚悟をもって日々を過ごした方が、心構えとしては丁度良い具合なのかもしれません。
克己復礼
自分に集中する。やるべきことをやる。人間だから愚痴をこぼしたくもなるし、独りで抱え込むのはマイナスだとも分かっている。でも弱音などは表に出したくない。乗り越えるべき敵は、自分なんだよね。やっぱり、僕は自分に負けたくない。
三浦知良(サッカー人として)「自分に目を向けるんだ」日本経済新聞|2020年2月14日
カズぐらいのプレイヤーになっても、克己心というレベルで悩み続けているのか。それを知ることができて、とても安心しませんか?
克己復礼という言葉が論語の中にあります。
己に克ち、礼に復る
「自分の中の欲望を制御し、社会の規律や礼節に則った行動をする」という儒教の考え方です。ストア哲学も似たような教義を持っているので、洋の東西を問わず、禁欲的なスタイルを好む人種には受けがいいのですが、世間的には、そういう難しいことはちょっといやだな、と受け止められるのが大勢だと思います。
あまり無理をして我慢ばかりすることは精神衛生上はよくありませんね。また、「礼」を強調しすぎて、世の中の規範にがんじがらめになる必要もないと思います。
大事なのは、自分が思い描く理想像に、自分が近づけるように、努力していますかということ。単なるやせ我慢では長続きしませんよね。自分が本当になりたい自分が見つかれば、きっと、その夢に向かって、自然に努力する自分を見つけることができると思いますよ。
今、手ごたえが感じられていない人、また、日々、誘惑に負けてダメな自分にほとほと呆れている人。そういう人がいるとしたら、なりたい自分になるんだという覚悟も含めて、本当に目指したい理想の自分が見つかっていないだけです。
だって、なりたい自分の姿が明確に認知できたら、人はその実現に向かって極自然体で頑張ることができるはずですから。
頑張れないときは、頑張ってなりたい自分像がまた描けていないだけなんです。頑張れない自分を責めても何も解決しませんから。
ちょっと目線を変えるだけで、前向きになれましたでしょ? ^^)
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