やられたらやり返す。
私の中では、すっかり、堺雅人さんは、リベンジ俳優です。TBSテレビ系、日曜劇場「半沢直樹」における、『やられたらやり返す。倍返しだ!』(2013年のユーキャン新語・流行語大賞)に痺れたビジネスパーソンも多かったのではないでしょうか。
2012年に第一期、2013年に第二期が放映されたフジテレビ系列「リーガル・ハイ」で、堺雅人さんが演じた、弁護士・古美門研介の名台詞のひとつがこれ。
やられたらやり返す。やられてなくてもやり返す。身に覚えのない奴にもやり返す。なりふり構わず八つ当たりだ。
古美門研介 TVドラマ「リーガル・ハイ」(フジテレビ系列)より
このセリフが善悪の視点から正しいかどうかは脇に置いておいて、こういうふうに、言い放つことができる立場だったら、どんなにスッキリ爽快なことか。心の中で喝采している人も多いことかと思います。
言葉の表層ではなく、真意・含意を汲み取りましょう
前向きに物事を捉えられるように自己改造中の私としては、冒頭の堺雅人さんが演じた 古美門研介 の言葉を次のように解釈しています。
「やられたらやり返す。」
こうしたリアクションを取ろうとする動機の正体は一体何なんでしょうね? 自分の心の内を探ってみてください。
自分が受けた悪意による嫌なことを、逆に相手に向かって実行することで、自分の中のいら立ちや怒りを相手にぶつけて解消しようとすることがその理由であると考えることで、こうしたリアクションを取ろうとする動機の90%は説明がつくのではないでしょうか?
悪意には悪意を持って仕返しをすることで、心の内の悪意・ストレスを解消したいんですよね。それが真の目的なら、もっと効果的なやり方がないものかと常々考えており、そのひとつのアイデアをここに披露します。
それは、100の悪意を受けたら、その相手に200の善意を返してあげることです。
これがどうして、より効果的なやり方といえるのでしょうか?
それは、自分に悪意を向けた相手への仕返しの効果が、悪意から善意に転換するだけで、2倍になり、元の値の倍返しをすると、効果が累積されて、4倍返し を実現することにつながるからです。
倍返しの倍、4倍返しだ!
顔を合わせれば、悪口やウソしか言わない悪友Aさんが、あなたの近くに存在するとします。今日も、朝から会話をしていると、「お前の話は相変わらず要領を得ないな。もっと分かりやすくいってくれよ」と、吐き捨てるように言われたとします。
これに、「お前こそ、いつもそんな憎まれ口ばかりで。そんな口ばかり聞いていると友達なくすぞ」と言い返したくなるところをぐっと堪えます。そして、逆にこう口にしてみてはいかがでしょうか。
「ご忠告ありがとう。感謝するよ。いつも自分が気が付かないところを教えてくれてどうもありがとう」
と、嫌みにならないように言ってみてはいかがでしょうか?
この時点で、Aさんが少しは機転が利くなら、自分が悪口雑言を吐き捨てていたことにハッと気づき、その上、寛大な心を見せたあなたに感心を寄せるかもしれません。
ハッと気づいたところで、善意の仕返し。感心を寄せるところで、倍返しが成立します。悪友Aさんがあなたに感心したことをあなたが察知した時点で、貴方の心理状態はどうでしょうか。悪友Aさんをハッとさせることに成功した時点で、悪意を返した場合と同程度のカタルシスを感じられるはずです。そのうえ、感心・感謝されるんですよ、悪友Aさんから。 満足度は倍になること請け合いです。^^)
こうして、憎しみや悪意の連鎖から自分を救い出してあげましょう。そっちの方が、相手も自分も前よりもっと幸福感が増しますから。
ちなみに、関心を寄せる部分、悪友Aさんはすぐには気が付かないかもしれません。しかし、大丈夫です。時間が経てばたつほど、後から気づいた悪友Aさんは、時間が経っているほどに、その反動であなたへの感心・感謝は大きくなります。
ここでも時間による利子効果が存在します。
「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」
いやあ、すみません、右の頬を殴られたら痛いんで、私は左の頬を思わず庇ってしまいます。^^)
誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい
マタイによる福音書5章38-42節
実は、この一文、新約聖書の舞台となった、紀元前後の中東の文化圏における習俗が深く関係していると解釈することもできます。
当時、相手の頬を打つためには、手のひらではなく、裏拳を使っていたようなんです。なぜなら、手のひらを使って相手をぶつと、自分の手のひらが、憎しみや悪意を持つ相手の身体(頬)に触れてしまいます。悪しきものに手のひらで触れると、自分の身が穢れると考えるのが一般的だったそうなんです。
それで、穢れた相手には、裏拳で殴っていたそうなんです。そして、まあ、現代風には全く歓迎されないことなんですが、当時は奴隷制が普通に存在しており、主人が奴隷に対して頬を打つ程度の暴力も日常茶飯事だったようなんです。
そういう背景を理解してうえで、新約聖書から上記の一文を取り上げて読んでみたとき、驚くべき事実が存在することに気が付きます。通常は右利きの人が多いので、右手を使って、奴隷の右側の頬を打ちます。その後、奴隷が主人に反抗して、左頬を差し出したとします。
左頬を差し出した奴隷をもう一度、打ち据えたい場合、今度は右手の手のひらを向けて、ビンタするしかなくなります。これは、主人-奴隷という主従関係から、対等な人間対人間という水平的関係にすり替えることができるのです。
だって、主人は手のひらを使うと、自分の身が穢れてしまうので、手のひらが触れても穢れない相手とは、奴隷であってはならないからです。
もちろん、「慈悲と許しの宗教」であるキリスト教の教義から、この左頬を差し出す行為は、まさしくキリストの教えを体現するマタイによる福音書の一説です。
しかし、それと同時に、頬を叩いてきた相手との上下関係の位置づけを打ち破る行為でもある挑戦的な要素に心惹かれませんか?
ちょっと寄り道をしましたが、いいたいことは、
悪意には善意を倍にして返してしまえ。相手に向けた善意は4倍返しで報われる! ^^)
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