■ 人は間違いを犯すもの。復讐法に則ると、罰を受けない人はいなくなる
An eye for eye only ends up making the whole world blind.
「目には目を」という考え方では、世界中の目をつぶしてしまうことになる。
(インドの弁護士、宗教家、政治指導者 / 1869~1948)
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非暴力・不服従運動によってイギリスからの独立運動を指揮したガンジー。彼の言葉には寛容と慈愛に満ち溢れています。誰だって、過ちを犯すものです。
⇒「ガンジー(3)もし、過ちを犯す自由がないのならば、自由を持つ価値はない。」
過ち、間違いを犯した人を片っ端から罰していては、この世は罪人だらけになってしまいます。
「法三章のみ」という言葉があります。漢の高祖(劉邦)が項羽と秦討伐の軍で先陣を争っていた時、劉邦が項羽に先んじて秦の都、咸陽に入ります。秦の煩瑣な法律によって苦しめられていた民の心をつかむため、殺人・傷害・窃盗のみを罰するという三条の法律だけに限定しました。これで民の心は進駐軍であった劉邦の方に一気に傾いたとされています。
また、こういう言葉も以前にご紹介しました。
指をさして人を非難する前に、君のその手がよごれていないか確かめてくれ
⇒「ボブ・マーリー(2)指をさして人を非難する前に、君のその手がよごれていないか確かめてくれ」
誰か他人の責を明らかにするためには、まず自分の佇まい(タタズマイ)を正しくする必要があります。その上で、他人を罰する資格があるのかを自分に問います。そこまでは、普通の人格者の振舞い。その先にあるのが、冒頭の言葉にある、他人の罪の一切を許せ、という姿勢なのです。
復讐法は、B.C.1792年~1750年にバビロニアを統治したハンムラビ王が発布したハンムラビ法典で有名です。
「目には目を、歯には歯を」
は、ハンムラビ法典196・197条にその記述があります。
195条:子がその父を打ったときは、その手を切られる
205条:奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られる
といった条項もあるため、あくまで復讐法が「等価」を絶対視して適用するのは、同じ身分同士に限られるという当時の社会通念も込められています。こういった罰があるのは、その前に引きこされる罪の発生を少しでも減じるような抑止効果を狙ったものとも言われています。
それでも、人は罪を犯してしまうものなのです。それが過失であれ、悪意的(意図的)であれ、罪はこの世から無くせるものではないのです。たとえ、復讐法を用いても。最も、現代では復讐法は禁じられており(私的制裁の禁止、罪刑法定主義など)、法学的には欲力的にも法的公平性の観点からも、あまりいいものではないという見方をされています。
ガンジーのような寛大な心の持ち主が多くなり、社会的寛容が当たり前の社会に、ヘイトスピーチやSNS上のバッシング等が無い社会の方が好まれるようになることを祈ります。
えっ、私ですか?
いやなことをされたら、「倍返しだ!!!」と心の中でそっとつぶやく程度です。(^^;)
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